代表取締役 湯川 剛

第1次7カ年計画(1973〜1980)として「自社ビル建設」を実現。
第2次5カ年計画(1981〜1985)の「リズムタッチ業界日本一:年間10万台」も突破。
それに勢いづいて、第3次5カ年計画(1986〜1990)ではなんとわずか5年で「売上を5倍にする」という身の丈以上の目標を掲げ、結果的には失敗した訳です。
今回の第4次10カ年計画(1991〜2000)「株式公開に向けての挑戦」も、もしかすれば第3次5カ年計画と同じく身の程知らずな目標設定だったかもしれません。しかも「株式公開」は、自分たちでビルを建てようとか売上を上げようとか、自分たちの頑張りだけで決まるのではなく、あくまでも第三者が決める訳ですから更にハードルが高い訳です。
「現在、我々に出来る能力がなくても10年先も出来ないとは言えない」と私は自分自身にも強く言い聞かせ、幹部にも10年先の株式公開実現に向かって説くのですが、やはり10年という長い期間がどのような作用を及ぼすのかが課題となります。

そこで私は「株式公開を実現する為の3つの条件」を手帳にも記載し、机の前の壁にも貼りました。
まず1番目に、「私はこの目標を忘れない」。
やはり10年という年月は長いという事です。日々の課題に追われ、同時に色々な弊害やそれを解決する事が出来ない状況に陥った時、多分「こんな事では株式公開など出来るはずがない」と弱気になり、目標設定の軌道修正をするかも知れない。そこに目標未達の落とし穴がある訳です。だからこの10年間、たとえ力不足を感じても、掲げた目標を降ろす事はしない。

2番目は、「株式公開に向かって第三者と具体的な行動を起こす」。
すなわち第三者と絡む事によって、1番目の問題の補佐になるのではないかと思いました。
そこで、第三者として、当時のシンクタンク機関である三和総合研究所と契約を結び、その後、証券会社や監査法人などとの絡みに繋がっていくように計画しました。

3番目は、「社内と社外の販売力強化」です。
「収益は七難隠す」と教わり、何としても収益体質を求められると思いました。その為には、売上の構築です。従来の市場の見直しや製品の見直しを徹底的にしました。何かを得たいならば、その見返りに多少の犠牲も止むを得ないと思いました。それが私自身の更なる殺人スケジュールを計画し、1年を200% 使うようにしました。その時間の殆どを社内と社外の販売力強化の為の時間に費やそうと思いました。当時は2泊3日の訓練と各地で開催する勉強会でかなりの時間を取られていましたが、それでも工夫をすればまだまだ活動出来る時間もあり、その時間を使って全国の販売店廻りを計画しました。社内においてもわずかの時間を見つけては10年先の我が社の社員育成の為に学生向けのリクルート活動も行ないました。
全国の販売店廻りの時間を作っては、その地域近くにある営業所を訪問し、社員さんとの個人面談も行ないました。
こうして6月11日以降の私の思考・行動基準を「3つの条件」に当てはめて動きました。

1991年12月30日、お墓参りの為にこの年初めての休日を取りました。
途中、友人宅で餅つきがあると言うので、車で向かいました。ラグビーで有名な東大阪市花園付近の信号で停車していた時、ふと見ると大阪ガスの工場があり、屋上に「大阪ガス」の看板が目に入りました。私はその看板に向かって手を合わせました。同乗していた妻がどうしたのかと聞いたので、

「今、大阪ガスで我が社の浄水器を採用してもらえるかどうかの審査中。年明けにその結果が出るらしい。」と説明し、信号が青に変わるのも気づかずに、手を合わせていました。

(次回に続く)

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