代表取締役 湯川 剛

2005年8月1日は、15回目の更新日です。
そして12775日前、すなわち35年前の1970年8月1日のこの日の事は、今もはっきりと覚えています。私を含めて5人の若者が私の家に集まりました。社長の私が23歳。そして現在専務の河原が22歳。実弟の総が21歳。それに19歳の男子社員と27歳の女子社員が創業時のメンバーでした。まだ貸室も決まらない状態でしたが、とりあえず「やろう!」という事で自宅に集まった訳です。

毎年8月1日は、関西では大変有名なPL花火大会が行なわれます。高校野球の甲子園出場などで全国的に名を馳せているPL学園の母体であるPL教団の花火大会です。ホームページによると何と約12万発の花火が打ち上げられ、日本最大との事です。それを自宅の屋根から見ていた場面は今でも、手に取るように思い出されます。

ここに弊社の社内新聞「おでん新聞」の1989年版に掲載されてある小説「やろうやないか」(作:今仁 見手郎)の一部を掲載。その当時の場面を小説風に書くとこうなる訳です。(登場人物は仮名で書かれています)

***≪小説「やろうやないか」≫****************************************

花火がパーッと夜空を彩づけた。南大阪のある信仰宗教団の花火大会の輝きである。
8月1日夜、優文が母親に作って貰ったにぎり飯を頬張りながら「ここからも見えるナァー」と言った。「大きければどこからでも見える」と誰かが言った。
うん、大きくなったらどこからでも見渡せるし、また見られる。と優文は自分に言い聞かせていた。
優文の家の屋根の上には、22歳の浩之と21歳の歩、そして19歳の博行と27歳の豊子が、同じようににぎり飯を食べながら、並んでこの花火を見ていた。優文は、男の中では一番年上で23歳。昨年結婚したが会社設立の事で走りまわり、新婚ムードにひたっている余裕など無かった。
この年は大阪で万国博覧会が開催され、高度成長の頂上にあり、この年から3年後に第1次オイルショック・省エネ時代となり、低成長経済となっていったのである。
しかし、彼らにとっては知るよしもなく、また知っていたところで若いエネルギーまでは省力する事は出来ない。
「さぁ、明日から忙しくなるぜ」歩がそういうと「そぉーや、明日はまず自分達の城を捜さなくてはいかん。軍資金は100万円しかない。どれ位の広さの場所を借りられるかなぁ。でも小さな会社やけど、望みは大きい方がいい。それだけにみんな、がんばらないかん」と浩之はみんなを見渡して言った。
豊子も「そうよ。みんなしっかり頑張ってね。一人一人が大事な役割よ。一人でもいい加減な気持ちでやるんだったら、今の花火みたいにパーッと咲いて、すぐに消えてしまうからね。」
年長者らしい言葉で言った。そして「社長、明日は法務局へ行って、会社登録の仕方を聞いてきます」豊子はそう言ったが、「社長と呼ぶのはやめてくれ。自分はまだ23歳や。」優文は、今まで見ていた花火を背にしてもう一度、4人の顔を見て言い直した。

「みんないいか。この僕についてきてくれたおかげで、小さな会社がもうじき誕生する。ありがたい事と思っている。しかし、いくら会社やからと言っても、社長と呼ぶのはちょっと待ってほしい。年齢だけではない。やはり会社の規模や。会社を設立するのは、法務局に行ってなんぼかの登録費を払えば登記されて設立出来るかもしれん。でもやっぱり中味や。中味の無い会社に社長もくそもないぜ。だからこれから、僕の事を社長と絶対呼ばないでほしい。中味が出来てその自信が出来たら、呼んでもらおう。でも今はお預けや」と優文は、顔は笑っていたが真剣な目で言った。(続く)

(次回に続く)

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