代表取締役 湯川 剛

会社設立日は、登記簿申請日の1970年8月29日になっていますが、私が社長として実際に活動した期間は準備期間も含め、同年3月より約37年の444ヶ月間、13500日の社長業でした。
37年間の長さを考えてみました。人生に例えるなら、この世に誕生して幼児期から小学校に入り、その後中学校から高校・大学と進み社会人となり、家庭を持ち子供の一人や二人がいて37歳を迎えたようなもので人生の半分を過ごした感じです。

ここで改めて37年間を第4次に分けて、思い巡らしたいと思います。
おおよそ10年間の区切りです。
1970年から1980年(23歳から33歳) 1981年から1990年(34歳から43歳)
1991年から2000年(44歳から53歳) 2001年から2007年(54歳から60歳)

1970年8月29日は登記簿謄本の申請日付ですが、暑い夏の日にこの会社は誕生しました。

当時を思い出せば「人が集まらない」「浄水器を認めて貰えない」「いつもお金がない」と経営の3要素であるヒト・モノ・カネが見事に不足していました。「金がない」「人がいない」「商品が売れない」の「3ない」が毎日の悩みの種です。毎日です。朝起きた時からです。同い年の友達と悩みの内容が違っていました。会社を設立した当時は、何故会社を設立したのか、その目的すら見失っていました。「何故、自分が親の借金を返さなければならないのか」という考えに疑問すらありませんでした。それが親孝行だとも思っていませんでした。
今から考えると父親が「会社を設立して借金を返すように」など言った事は一切ありません。
どこかで働いて返せばよかったのですが、当時の給料の倍くらいが毎月の借金返済額でした。

今から考えれば、元々独立志向があった訳でもなく、だからといって父親の借金を返す為には勤め人では返せないので自分で商売をしなければならないという状況が、自然の流れで会社を設立したと思います。会社を設立して改めて「不足3点セット」を感じた訳です。一言で「お金がない」と言いますが、それは言葉で表す以上に大変な事なのです。23歳にして社員さんの毎月の給料の支払いに吐き気がする程、月末には悩んでいました。自慢にはなりませんが、そんな金欠状態でも、1日たりとも社員さんの給料を遅延した事はありません。
この草創期を今、思い出しても逆流性食道炎のような症状に似て、48年前の胃からこみ上げるような苦酸っぱい感覚は、はっきりと覚えています。

今から考えればゾッとするような環境下でのスタートですが、その当時は怖さも恥もなく常に前に向けて生きていました。若さ故の強さでしょうか。それとも社会の怖さを知らなかったから出来たのでしょうか。とにかく「何とかなる」が常に前提にありました。 それにしても不思議です。社員さんもいない、お金もないのにどうして会社が運営出来たのか、今から考えれば不思議でなりません。まだ一般的に認めて貰っていない浄水器をかばんに入れて、お客様から見ればどこの馬の骨かも分からない若者が1軒1軒売り歩いている訳です。殆ど断られた場面しか思い出せません。でも継続していたのです。それが不思議です。社員さんが集まってきましたが、5坪の小さな部屋でどうして集まってきたのか、それも不思議です。

そんな苦しい私に友人が「湯川、小さな会社だけど社長さんやないか」と冷やかしで言われます。そこで私がいつも「自分は、社長兼 営業部長兼 メンテナンス部長兼 財務部長兼 経理部長兼 人事部長兼 集金担当兼 高倉健、松平健に最後に志村けんの10役を兼ねてやっている」と言い返していました。冗談で高倉健、松平健、志村けんと表現しているのではありません。
どこの創業者もそうですが、全てを兼ねていたのです。社長兼セールスマンは当たり前。そして高倉健も必要でした。小さな会社にやっと入社してくれた社員さんに対し、〝男気〟で頼れるリーダーでなくてはならないと思って社員さんには接していました。また誰よりも朝早くから夜遅くまで率先して営業に走っていました。自分がまず動く。
「松平健の暴れん坊将軍や」と言って社員さんを鼓舞していました。また小さな会社故に、いつも明るくしていました。自らピエロになって、時にはワンカップとたこ焼きで小さな部屋で酒盛りをして、社員さんに払う給料の低さを、笑いの絶えない雰囲気で補っていました。まさに志村けんです。

創立3年目に「創立10年には必ず自社ビルを建てるぞ」と部屋に飾ってある完成図を毎日見ていた事を思い出します。
はっきり言える事は、小さなお山の大将でしたがいつも前を向いていた事だけは間違いなかったと思います。いつも将来について話したりして、わずかな社員さんと仕事をしている最中だけはお金が足らない事も忘れ、親の借金を返済する事で会社を作ったなども忘れていた事は確かです。20代の前半で独立したのがよかったのか、若さをフルに生かして闘っていました。

5坪からスタートした会社が3年目に「創立10年には自社ビルを建てる」という目標を掲げ、約束の10年で小さなお城が出来ていました。不思議です。ほんとに不思議な出来事です。
ただ7年かけて毎日夢にまで見た自社ビルを、完成3日目で何とも感じなくなったのも不思議な事です。その時は次の夢に向かって走っていた訳です。
この第1次草創期の10年は、理念を掲げ、目標を掲げ、社員教育の基礎を作り、社長として37年の間で一番苦しく一番重要な愛しい10年間です。

1970年から1980年(23歳から33歳)は、マイナスからのスタートで何もない荒野をただひたすら突っ走っていた訳です。


(次回に続く)

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