代表取締役 湯川 剛

地震が発生した2011年3月11日から9日目の20日(日)。
私は東京7時08分発、新潟9時31分着の新幹線に乗りました。営業拠点がある仙台支店や盛岡営業所に1日も早く駆け付けたい思いに駆られましたが、地震後の指揮や対応に追われ1週間以上も時間を取られてしまいました。
仙台や盛岡へは最短経路の新幹線・幹線道路・空路全てが遮断されている為、新潟を起点に山形経由で仙台入りする事にしました。新潟営業所の社用車に、積載制限いっぱいまで食料品や自転車を詰め込み、新潟営業所所長の運転で仙台に向かいました。新潟から車で仙台まで移動するのは初めての経験です。幹線道路は使用出来ず、山道での移動となりました。
この有事に食べたいものを食べられずにいる社員さんやそのご家族の事を思うと、移動途中の食事の際、何となく「食べたいもの」を注文する事に気が引けました。この日本の空の下で自由に食事を注文する事が出来る環境もあれば、災害で亡くなられた遺族の方や今なお行方不明の安否確認に奔走されているご家族の方や不自由な避難生活を強いられている人々がいる訳です。この同じ日本の空の下、もし神様が上から見ているとしたらどんな気持ちで見ているのでしょうか。
阪神淡路大震災の時もそうでした。被災地から電車で梅田に戻った時に、そこには震災とは程遠い、別世界がありました。マクドナルドでハンバーガーを食べている人々の光景は今も私の脳裏にあります。(第157回掲載)テレビに映る悲惨な光景は、画面の向こうの別世界での出来事のように感じるのでしょうか。
車は山形から県境を越えて、もうすぐ仙台の道路案内板が見えました。
新潟を10時に出発して仙台市内に入ったのは16時過ぎでした。

仙台市内に入って街並みがそれ程変わっていない事に少し驚きました。
私は16年前の1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の神戸三宮駅前のビルや高速道路の崩壊が頭から離れておらず、そんなイメージを抱いて仙台市内に入りました。
停電や断水などは市内にも及んでいましたが、今回の東日本大震災で東北方面は津波の被害が史上稀にみる大悲惨になった事は後々知る事となります。

OSG仙台支店には7人の社員さんが集まっていました。
仙台支店が入っているビルは幸いにも直接的な被害はなく、電気も水道もすぐに復旧したとの事でした。事務所内を見るとあちこちに段ボールがあり、聞けば支店内で寝泊まりしている社員さんがおり、また避難所生活をしている社員さんやご家族もいる状況です。
仙台支店は、OSGにとってさながら被災地の最前線基地になっていた感じです。少し余裕が出来た段階で彼らはこの基地からお客様方の安否確認に動いてくれていました。

温かい食事を摂らせてあげたいと、いわゆる震災鍋をみんなで囲みました。
食事後、ガス水道光熱等が遮断されていても寝る事に支障のない社員さんは、それぞれの自宅で寝ることになりました。

「近くのビジネスホテルに会長用として1室確保していますので、休んで下さい」
新潟営業所所長が私にそう言ったので、思わず「アホな事をいうな!」と言葉を返しました。
「自分はこの事務所内で寝るから、ここで寝泊まりしていた社員さんに使って貰いなさい」とホテルには2人の社員さんが行き、私と新潟営業所所長は事務所内で寝る事になりました。この時期はまだ肌寒く、やはり段ボールのお世話にならないと暖を確保する事は出来ません。ここで1週間以上も寝泊まりしていた社員さん。避難所で寝泊まりする社員さんやご家族。ましてこの震災で多くの方が亡くなり、行方不明のご家族の無事を願う方々がいらっしゃる事を思うと、事務所内の段ボールベッドで一夜を過ごす事など何の苦でもありません。

【追記】
段ボールベッドに横になって私は、16年前の阪神淡路大震災のいろいろな場面が脳裏に蘇りました。その中で、社長と社員が一丸となり株式上場実現を目指すレンタル業の会社の事を思い出しました。何度か勉強会の講師依頼を受けた事がある会社です。
震災で社長も社員さんも被災。社長の自宅もガスや水道が止まり、生活が不自由になったとの事です。この時、社長は「ガスや水道が動き出すまで家族と1か月程ホテルで過ごした」事を私に話しました。話ぶりからすると私にだけでなく、恐らく多くの方に触れ回っているのだろうと想像させる感じで、私は違和感を覚えました。避難所で過ごす社員さんがいる事も、その社長から聞きました。例えもし家族の方とホテルで過ごしたとしても立場上、他言する必要はないと思いました。
この震災から1年も経たず、この会社は倒産しました。上場までやろうとした会社です。
社長は倒産の原因は震災にあると言いました。私は別のところにあると思いました。

(次回に続く)

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