代表取締役 湯川 剛

1979年11月11日に「業界日本一を目指す」と宣言し、1985年を実現の年と設定して、リズムタッチ年間10万台販売を目指しました。わずか年間数千台も満たない実績だった5年前と比較して30倍以上の台数を売るなど、よくよく考えてみれば不可能に近い目標でした。
ただ当時は前を向く以外何も考えていない状態の為、他人から見れば無茶な目標設定も、当の本人にしてみれば至って正常な認識で目標設定した訳です。その数字をやる為の裏づけなどはなく、まずは「10万台の目標ありき」で、次に「その為にはどうしたらいいのか」と後付の裏づけを作って行ったようなものです。今の私なら到底考えられない行動だったと思います。

今なら多分、「10万台やる!」と言えば周囲は「10万台をやる、その裏づけはあるのか。あれば説明するなり、見せて欲しい」と言われるので、宣言するにも慎重になると思います。
当時は経験も実績もない事が怖いもの知らずの状況を生み、とりあえず前へ前へと推し進めて行ったのでしょう。しかしこれが若さであり、このエネルギーはこの若い時期に出してこその特権だと思う訳です。若くして妙に老練な対応をする若者もいますが、若さとは未熟で荒々しさがあり、そこに危なっかしさが同居する、そんなノーリミットのエネルギーもあるのです。
この5年間は多くの仲間が集まり、また多くの刺激策や演出を行なって、奇跡の実現に挑戦しました。不思議なほどに次々と大型契約が決まっていく光景は、まさに強い「念い」が発する引き寄せるエネルギーの凄さも、この5年間で体験しました。

1984年、すなわち「優勝劣敗決定戦の前年」の1月に私は社長兼営業本部長になりました。営業部隊の総指揮官として指揮を執ったこの2年間は文字通り、1年365日不眠不休の毎日でした。営業本部長として全ての営業の指揮を執らなくてはならなかったと同時に、社長業も要求され、それに加えて更にGAT訓練の指揮官として、月の半分は山に篭っての訓練依頼をこなしていました。37歳という若さだけが頼りでした。全てが血となり肉となって我が身に能力が付くと信じ、一切の不満も苦労も前向きに捉えました。

その年の11月、9万台突破を機に「勝利宣言」をし、すぐさま翌年1月15日に行なう祝勝パーティーと創立15周年の準備を指示しました。この勝利は社員さんの頑張りを抜きにしては、語る事は出来ません。私達が優秀なら勝利は得られるが、もし実力が劣っているならば実現出来ないとして、優勝劣敗決定戦すなわち天国か地獄かの二者選択で挑んだ5年間でした。社員さんは、この5年間で驚くほどの成長を果たしました。過酷なほどの目標設定が社員さんの成長を引っ張ったのです。他社の教育も行ないましたが、同時に徹底して社内の社員教育も行なったのもこの年です。販売台数が業界日本一になったのですが、むしろ社員さんの頑張りが日本一であり、成長率が日本一だと思っています。

追記
この1年間、ありがとうございました。
この1年間の掲載は、1981年1月15日の創立10周年記念式典で業界日本一宣言をしてから15周年記念式典の勝利報告までの5年間のOSGの歴史をお話させて頂きました。
私の34歳から38歳までの人生で一番血気盛んな時期の出来事でした。

この5年間はOSGが今後どのような方向付けをするのかという得がたい経験を積んだ時期であったと思います。全社員が不可能と思われる目標を掲げ、それに向かって一丸となって進んで行った時期でした。またこの5年間に「本社ビルを建てるぞ」が実現し、その後東京・福岡など4箇所の建設と買収を行ない、まさに全国発信の基礎を作った5年間でもありました。
掲載はしていませんが、私だけしか出来ないGAT訓練では、いつか課題にぶつかると思い、この期間にOSGの幹部が社員教育のインストラクター的な業務をこなせるようになりました。
「行動する販売戦略勉強会」として訓練を体験された企業を中心に、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・福岡・大分に8箇所の経営塾も開催(3ヶ月毎開催)されました。

社員さんも増え、製造元も変わり、この5年間に神がかり的なところもありましたが、語り尽くせない程の激動の期間でもありました。そして何よりも得た事は、全社員が徒党を組んで行なった体験です。

来年もよろしくお願い致します。

(次回に続く)

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