代表取締役 湯川 剛

第98回の更新日は、2009年1月15日です。

ちょうど23年前の1986年1月12日は創立15周年・業界日本一の祝賀会でした。
5年前の1981年1月15日の創立10周年のパーティーの最後の挨拶で、「5年後にお会いする時は業界日本一の報告パ−ティーです」と、当時34歳の厚顔無恥で大見得を切った事でしたが、勿論5年前の事など誰も覚えてはいません。
5年前と違って、スポーツ講演会などでゲストとして出演してくださった往年の名投手の金田正一・村山実・皆川睦夫各氏をはじめ、当然の事ながらアントニオ猪木氏や藤波辰巳・前田日明・高田延彦など多彩なゲストが駆けつけてくれました。社員さんやご家族の方も含めて1000人近い参加のパーティーでした。この5年間でお世話になった多くの方々に、勝利の報告が出来てよかったと思いました。

ただ、この式典に居なければならない人が、1人参加していませんでした。
それは9月に緊急入院された中野相談役です。

1983年2月にある方を介して、松下電器グループの主力関連会社の松下冷機の役員であった中野氏との出会いがありました。相談役として日本一実現の協力を要請し承諾して貰いましたが、10日後に辞退され、私が「逃げるのか」と言ったいきさつ(第80回記載)もありましたが、3年1000日は言葉で言い尽くす事の出来ない程の指導を受けました。
相談役のお陰で製品のコストダウンや製造元である日本理工に製造指導を行なって貰うなど、私自身の不得意な面を補ってくれました。その中野相談役が癌だと診断されたのです。
仕事の合間を見つけては、何度も病院に行きました。その都度、「大丈夫か」とご自分の身体より私達の心配をされていました。11月に勝利宣言をしたと、ある日中野相談役に伝えたのですが、薬の関係か、意識が朦朧とされていました。その時、中野相談役宛にOSGの全拠点から社員さんのメッセージを寄せ書きした色紙をお渡ししたところ、色紙の裏にご自分がマジックを持たれ「業界日本一は大丈夫か。必ず業界日本一になるように」と書かれました。

ある日、私が病院に来るようにとの連絡が入りました。話しは、「湯川社長に会わせたい人がいる。OSGの事はその人に何度も説明してある。私が万一、亡くなった時の事を考えて、私よりもっと素晴らしい人を湯川社長に紹介するので、すぐに会うように」という事でした。私は「中野相談役が元気になれば、それでいいのであって、亡くなるなど言わないで下さい。」と泣きそうな気持ちを抑えながら、話ました。しかし相談役は、ダメだと是非会いなさいという事でした。

仕事をしていると辛い事の方が多いですが、勝利はその辛さを癒してくれます。
逆に言えば、勝利を得る為にはその何倍もの辛い事を受け入れなければならないと言う事です。そのような意味では業界日本一の実現は、私にとって辛い交換条件を受け入れなければなりませんでした。
中野相談役は、創立15周年・業界日本一達成の祝賀会の2日後、式の無事終わるのを待つようにして、1月14日に逝去されました。
葬儀の時、遺影に向かってただただ「中野相談役、ありがとうございました」以外の言葉は出てきませんでした。ただ感謝の涙だけが溢れていました。

そして紹介して貰ったのが、松下冷機の元社長の横井克己氏でした。

(次回に続く)

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