本来、第353回は「新社長誕生」について掲載する予定でしたがお休みします。
この「人生はプラス思考で歩きましょう!」(略「人プラ」)の第1回掲載は2005年1月1日からですので、12年と2ヶ月が過ぎました。
ご存知のようにこの「人プラ」は創業の日からの出来事を年次毎に書いています。私としては社史を綴っているような感覚で掲載しています。ただこの12年間で、1度お休みを頂いたのは2011年3月~4月に掲載予定の東日本大震災の時でした。今回はそれ以来のお休みです。
私にとって2018年2月21日は、忘れられない日になりました。
それは創業メンバーのひとりが亡くなりました。
彼の横で書いているにも関わらず、いつも「人プラ」を楽しみにしてくれていました。
今から48年前の1970年8月。5坪の貸室からスタートしたOSGコーポレーションの創業メンバー5人。当時、私が23歳、そして彼、河原一郎は22歳でした。
一言で言うと河原一郎の人生は、私の黒子に徹してくれた人生でした。
この「人プラ」での掲載でお分かりのように、創業当時から私は殆ど会社にはいません。
私は常に会社では不在状態であり、そのため仕入先・取引先様等の支払いは滞ってはいけないとの事で若い時から私は彼に会社の実印や銀行印を預けていました。銀行の対応もしていました。
話は2018年2月16日に戻します。亡くなる5日前です。
その日の夕刻、私の机の前にいる彼に「来週は海外に出るので」に彼は「気をつけて行って来て下さい」のやり取りが彼との今生の最後の言葉でした。
報告によると彼は16日の勤務を終え、1ヶ月前より約束していた親しい人達と自宅近くのお店で食事をして別れました。そして自宅近くで転倒したのか、頭を強打し倒れていたところを発見され、救急車を呼んでくれたとの事でした。
翌日、土曜日でしたが弊社の内部監査室長が出勤をしているのでどうしたのかと聞くと、以上のような話でした。すぐさま病院に駆けつけると言いましたが、親族以外の面会は出来ないとの事で現在、集中治療室にて治療を受けていますとの事でした。
私達は10年前の転倒事故を思い出しました。この時も転倒し2ヶ月間の意識不明が続きました。その間、死線を彷徨いましたが、無事生還した経緯があったので多少の後遺症は残るかもしれないが復帰してくれるだろうと思っていました。しかし2度目の奇跡は起こりませんでした。
河原一郎は、私のやる事には殆ど否定しません。今回の「人プラ」掲載中の社長交代の時もそうです。「60歳で社長を交代する」は私が宣言した事です。本来であれば、当時専務取締役であった彼は、何も専務取締役を辞任する事はなかったのです。しかし私が「河原さん、若い社長が誕生した。君がいれば若い社長もやりにくいだろう。だから辞任してくれるか」に対してすぐに「わかりました」という人でした。全てを私に「お任せします」との返事でした。
今までも「本社ビルを建てるぞ」に「わかりました」。「M&Aやるぞ」に「わかりました」。「上場するぞ」に「わかりました」。「海外に進出するぞ」に「わかりました」と応える人でした。
この「わかりました」にはいろいろな意味があります。時にはその為には資金は用意しなければいけないのだなと阿吽の気持ちの「わかりました」だったでしょう。
時には私が迷いながら判断している決断に「わかりました」と私を後押ししたのでしょう。
正直私は彼の「わかりました」に勇気を受けた事が時々あります。
人は「それは参謀として間違っている。大将が間違った道を行く時に、時にはNOと言わなければならない。それこそが参謀だ」と、したり顔で言うでしょう。
彼は「私に対して一切否定しない」という事を知って彼に伝えていました。私の後押しです。
私の社長辞任を受けて彼は専務取締役を辞任しました。
それから現役を離れて10年。従来の立場から解放され、今までの長い闘いを休息する戦士のような10年でもありました。専務辞任後、相談役から顧問になりましたが「辞める時は一緒だ」と彼に伝えていました。
専務辞任直後に「2人が会社を辞めたら、2人で会社を作ろう。そして河原さんが社長や。オレは専務になる。会社の近くで居酒屋をやろう。OSGの社員さん達にメチャメチャ安くお酒を提供する居酒屋がいいな」と約束したのが10年前の事です。
その約束をして10年。何を思ったのか、昨年末に私達は開店する予定もなく会社設立の登記を済ませ、約束通り彼が社長になりました。
お通夜から告別式まで多くの弔問の方々が参列してくれました。
その中には多くの元社員さんも駆けつけてくれました。彼の人柄を改めて感じた次第です。
最後のお別れの時に棺の中に「OSG小さな努力賞カード」を入れようと提案しました。
参列した約100人の社員さんが河原顧問に向けてメッセージを書き、涙と共にカードを入れました。元社員さん達も懐かしい「小さな努力賞カード」にメッセージを書いてくれました。
私は「小さな努力賞」の「小さな」という文字を「大きな」と書き換えました。
そして「48年間ありがとうございました。天国でまた会いましょう」の言葉を添えて、花と共に棺の中に入れました。
さようなら、戦友。さようなら、河原一郎。
追記
それにしても残念です。2年後の2020年はOSG50周年ですが、式典に出席させる事は出来ません。また50周年記念事業として私が自費投資した映画製作「セカイイチオイシイ水~マロンパティの涙」(監督 西海謙一郎/来年19年春上映予定)が3月1日より撮影に入り、河原さんもこの撮影を楽しみにしていました。無念です。
葬儀を終えた夜。幹部はじめ多くの人達が私にメールをくれました。内容は河原さんに対しての感謝であり、思い出です。私はそのメールを読み終えた後、河原さん宛てにそのメールを全て転送しました。
届け、天国の河原さんへ。
(次回に続く)
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