代表取締役 湯川 剛

最近の「人プラ」の内容は、水宅配事業と中国事業に特化して書かれています。
勿論、OSGはこの2事業だけをしている訳ではありません。OSGには従来の事業や新たに立ち上げた事業もあります。
今回は2012年のそれ以外の出来事について掲載したいと思います。

この年の5月に「OSGコミュニケーションズ」が設立されました。
溝端社長が率先して立ち上げた事業部です。
OSG社内にはない新しい形のビジネスモデルです。
この話が来た時に私は二つ返事で了承しました。正直その時のビジネスモデルの説明は、あまり理解していませんでしたが社長自らの提案には何も躊躇する事はありません。
「やってみたら」です。大阪人ならお馴染みのサントリーの創業者である鳥井信治郎さん風でいう「やってみなはれ」でした。
このビジネスモデルは同業T社にもあるという事です。実はこのT社のビジネスモデルを取り入れたきっかけは4年前に遡るある出来事があったからです。
私達が長年培ってきたLPガス大手取引先の岩村産業とT社のトップ同士の極めて個人的な関係からひっくり返された経緯がありました。当時のこの問題は岩村産業の幹部や販売店様からも異論や大反対が出ました。長年OSGブランドで取り扱ってきた事への愛着もありますが、現実にはカートリッジ交換が取引中止によって出来ないという大きな弊害があるからです。いくらトップ同士の決め事であったとしても、そう簡単に製品を変えるものではない。という事での反対でした。しかしトップの指示に従うしかありません。2社共東証一部の大企業でしたが、所詮はトップに顔色を伺うサラリーマン集団でした。
この仕掛けをしたT社に対して溝端社長が「倍返しだ」の気持ちがあった事は当然の事です。
あれから8年が過ぎましたが、わずか数年で岩村産業とT社の取引の継続はなく、OSGは岩村産業の販売店様と今も直接に繋がっています。(第377回)

2012年で私には忘れられない出来事があります。
5月24日、私の携帯電話に「沼田が意識不明です」という内容のメールを受信。メールを送信してきた社員さんに電話をすると彼が入院している事を知りました。幸いこの日、私は大阪にいたので仕事をキャンセルし、15時に沼田君が入院している徳洲会病院に駆けつけました。最初は親族でないと面会できないとの事でしたが事情を説明して集中治療室に入りました。声を掛けても反応はありません。チューブでかろうじて「生きている」という状況でした。何とか助けて貰えないかと医者に迫りました。勿論、お医者さんは必死の対応をして頂いている訳です。その夜、どうしても外せない仕事が東京にあり、向いました。それまでのギリギリの1時間半ばかりの時間に私は病院にいて「何故なんだ」が頭の中で問うていました。それは彼が39歳だからです。その間、大病したという話も聞いていません。

3日後の27日、私は羽田から上海に飛びました。30日朝、沼田君死去の報告を受け、急遽帰国。31日の通夜で彼の同期の社員さん達と話をしました。話は「何故なんだ」を繰り返すばかりです。話した結果、判明した事は「毎年の健康診断で再検査を言われていたが本人がその事を重視していなかった」との事でした。

6月1日(金)。OSGは第1金曜日の8時30分より定例役員会があります。それを急遽14時に変更し、午前の沼田君の告別式に役員全員が参列しました。
彼の遺影に向かって約束をしました。それは二度とこのような事を繰り返してはいけない。沼田君の死を無駄にしたくないと手を合わせながら誓いました。
午後からの役員会の席上で役員に向かっていいました。「二度と沼田君のような事を繰り返したくない。全社員の健康診断の結果や更に「再検査」の必要がある社員さんに対して役員は全員関心を持つ。その為、毎月の役員会には「健康診断の状況を最後まで確認する」という事を話しました。そして彼の名前と亡くなった年齢を忘れない為に「N39」という名称で「健康診断と再検査の重要性」をOSGの周知徹底を図りました。

あれから8年が経過しました。OSGでは毎月の役員会の席上で「N39」についての報告が役員にされます。健康診断を受診した社員数。その後の再検査の受診数。更に再々検査が必要な場合も最後の「0人」まで役員が確認する事になっています。

2012年6月の役員会から20年4月の役員会までの95か月間、私達は社員さん達の健康管理「N39」で監視し続け、今後も引き続き行なっていきます。

2012年もいろいろな出来事がありました。
次回から2013年についてお話しします。

【追記】
2020年4月7日。「緊急事態宣言」発令の日。

この日、私は〝水にこだわる高級食パン〟「食パン専門店」盛岡店のオープンセレモニー出席の為に、感染者ゼロの岩手県盛岡市内のホテルで朝を迎えました。
史上初の「緊急事態宣言」が発令された日でもあります。
対象エリアは事前予想の東京都と大阪府以外に新たに千葉県・埼玉県・神奈川県・兵庫県・福岡県が発表され、7都府県との事です。

話は2か月前に戻ります。20年2月1日、全国の拠点長テレビ会議の席上で、私は「創立50周年記念事業年度を迎え、本来なら東京五輪のイベントで販売促進を行ない、華やかに50周年をお祝いするところでした。しかしながら世界を震撼させる新型コロナウィルスの蔓延で、創立50周年も東京五輪販売促進もふっとんだ。
私達は50周年をコロナショックの手荒い歓迎を受けた事になる。それならそれでやってやろうじゃないか。やるぞ!!」に約100名以上の参加者もテレビ画面越しに「オーッ!」と応えてくれました。

この時の「やってやろうじゃないか!」の言葉の意味を2週間後に発表しました。
「貢献する。告知する。元気を与える。」この3大行動目標に対して私達は「やってやろうじゃないか!」という意味を説明しました。
まず私達は「貢献する」具体的行動の第1弾として市場に消毒液が不足している事から、私達のお客様に除菌水の無料配布を決めました。(第427回掲載)

「貢献する」第2弾として私達は行政に無償提供する事を3月の役員会で決めました。
対象はオーバーシュート(爆発的患者急増)が懸念される東京都と大阪府です。
弊社製品の除菌水(4倍希釈:20ℓ)をそれぞれ1000セット 合計2000セットの無償提供でした。

4月7日。この日の「緊急事態宣言」の対象エリアが7都府県と発表されました。
「さて、東京都と大阪府以外のエリアはどうするのか」私はホテルで自問自答しました。

決断が出ないままホテルを出て「高級食パン専門店」の盛岡店に行きました。
10時のオープン前から多くのお客様が集まって下さいました。新型コロナ感染者ゼロの盛岡では人と人との間隔を空けることもなく、自由に並んで頂きました。
この普通の光景が現在の全国の殆どの地域では普通ではないのです。私は一刻も早く目の前の光景を普通のようにしなければならないと強く思いました。

オープンセレモニーを終えた私は、感染者ゼロの盛岡駅から感染者多発エリアの東京駅に向かって新幹線に乗りました。移動の車中、何度も繰り返し考えました。
「東京都と大阪府以外のエリアはどうするのか」
しかし心の中では何となく決まっていました。
あの「人と人との距離を気にしない行列」の光景を目にした時から決まっていたと思います。
問題は「無償提供」をどの程度の規模まで行なうのか。ふと「1万ケースはいるか」

1万ケースといえば20ℓの4倍希釈で80ℓ×1万ケース。すなわち500mlの容器で160万本相当の消毒液が出来ます。
しかし1万ケースとなれば販売価格換算では1億5000万円相当の費用です。
私達は東京都と大阪府で5000ケースの無償提供を想定していました。これらの費用は創立50周年記念式典(都内ホテルにて2500人予定)の予算を全て取り崩して行なう事になっていました。ところが1万ケースとなれば更に5000ケースの費用が追加されます。
私の頭の中は「1万」「1万」と「1万ケース」という数字がぐるぐる回っていました。
それは追加費用に対して経営者としての判断に対して「どうするか」の決断です。

私は仙台駅を通過した辺りで腹を決めました。
「緊急事態宣言7都府県に無償提供1万ケースをやる。これが〝私達が出来る事〟の現在、精一杯やれる社会貢献である。そしてこれがOSGの創立50周年記念事業だ」

その日の朝に社長との電話会議で「会長一任」となっていましたが、これにて私達の進むべき方向が新幹線車中で決まったのです。

(次回に続く)

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