欧愛水基の呉江工場で働く社員さんやパートさん達の「上海移転」に対して杞憂する問題も解消され、15年12月7日、長喜とのミーティングで上海へ拠点を移す事を最終決定しました。
毎年恒例の新入社員と参加するホノルルマラソン。この時の私はランナーではなく、新入社員のサポートで参加。学芸会や運動会で「我が子の活躍を撮影する」ような気持ちでビデオカメラを回していました。新入社員総勢20名、一人でも欠けてはいけないとの思いから恐らく私も30キロ以上も移動しながら撮影を続けていました。この年のホノルルマラソンは例年以上の記録的猛暑で、約3万人の参加に対し約7000人が棄権をした程でした。
20人全員が無事にゴールした事を見届け、次に私は私の部屋で行なうマラソン打ち上げパーティの準備に取り掛かりました。この年は冷やしそうめんでした。
思い通りに体を動かせなくなるかもしれない「後縦靭帯骨化症」という爆弾を私は首に抱えながら、それでも当時も今も変わることなく「体が動ける間は徹底的に活用しよう」と思っています。その思いが、この日30キロ以上の距離を歩かせたのだと思います。この日の万歩計は5万歩を越えていました。
マラソン翌日の現地時間2015年12月14日、私は一人帰国する為、ホノルル空港に向かいました。日付が変わった日本時間の15日に羽田到着。
翌16日に東京医科歯科大で採血検査とレントゲンを撮り、翌17日には上海に飛びました。
12月17日11時45分に上海へ到着した私は、長喜工業団地へ移動し13時に長喜の孫董事長と面談。1階のオフィスは年明け1月15日完成、2階の展示場は4月末完成を目指すという方向で話がまとまり、年内に青写真を作り上げておきたいと思いました。年末までのわずかな時間に決定すべき事はどしどし決断していく事になりました。
18日、10月に欧愛水基に入社した、天然社の元ブロック責任者であった林社員と欧愛水基営業社員との打ち合わせに参加。
その席上「今年の始めより、台湾大手食品メーカーの消毒水「神の水」が広く販売され、欧愛水基の代理店も扱っている」事が話題になりました。調べてみると「神の水」は5年前まで欧愛水基で勤務していた台湾人の羅元社員が開発したものだという事が判明。「健康食品の販売停止に伴い、代理店はその代替え商品として『神の水』を扱っている」との事でした。
19日は1日中、衛生管理機器の中国代理店との面談が続きました。
この日の夕方、米国のプロレス団体WWE上海オフィスの責任者と猪木氏の娘婿との面談を仲介しました。その席上でWWEとIGFはそれぞれの持ち味を生かして提携するところまで話が進みました。話の内容はWWE上海では中国人選手の発掘等は時間的に出来ないので上海IGFがその役割をして欲しい。その代わりに上海IGFで育成された選手はWWEに優先的に入団できるような話になりました。
ここでOSGはその協力の見返りに、中国ケーブルテレビやマカオテレビ局でのIGF映像が流れる時に「OSG」のCMを無償で放映される事も決まりました。
衛生管理機器の代理店との会合やWWEとの面談の合間に私は、消毒水機器「神の水」を開発した羅元社員を探すことを指示しました。出来れば、私が上海出張中に何らかの方向を決めておきたいとそんな予感がしました。
すると幸運にも彼が上海にいる事が分かりました。私は衛生管理機器代理店との夕食を終えた22時過ぎに、私が宿泊しているホテルの喫茶店で羅氏と再会しました。
羅氏の話によると「神の水」製品を開発したのは間違いなく自分であると認めました。
しかも彼の話によると、12月1日付で辞表を提出しているとの事でした。
そこで「欧愛水基に再び入社してそれらの開発は出来るか?」と私が彼に質問すると、前向きに考えてみると返事を貰いました。
【追記】
OSGでの戦友であり同志である藤沢取締役監査役が4月6日に67歳で他界しました。
2018年2月、創業メンバー5人の内の1人であった河原相談役の死去に次いでの別れです。私の両腕をもぎ取られるような気持ちです。
1970年(昭和45年)8月にOSGは誕生しました。何度となくこの「人プラ」で紹介していますが「貸室5坪に5人」が創業のスタートです。問題はこの後の事です。5人5坪の会社に6人目の社員さんが入社する事はなかなか容易ではありません。
1975年5月。そんな創業5年目に1人の青年が新聞の人材募集を見て訪ねて来てくれました。それが21歳の藤沢さんです。私が28歳でした。昭和50年5月の入社です。
この当時、女性事務員さん以外は全員が営業職です。私自身も社長兼事務員兼集金担当兼営業マンです。販売ルートもなく、浄水器をカバンに入れて訪問販売をする日々でした。
「浄水器」の資料を見ると「1950年代に誕生」とされていますが、この当時も「浄水器」という名称は殆ど知られていません。そんな初期市場、藤沢さんは入社してくれました。私と販売を競い合う訳ですが、負けん気の強さから営業ではトップクラスです。
ある時「独立してやってみたい」との申し出があり必死に止めました。妥協点として「OSGから浄水器を仕入れる」事で独立を認めました。私の心の中では「成功して欲しい」という気持ちと「失敗して早く戻ってきて欲しい」という気持ちが正直ありました。結果的には3年ほどで戻ってきてくれましたが「独立を失敗した」という記憶はありません。
その後、彼は経理一筋に私の片腕としてOSGを支えてくれました。何と言っても上場に挑む時の準備は大変なものでした。藤沢経理部長が40代前半の時です。
OSG人生45年間の最後は取締役監査役でした。亡くなる4日前の4月2日の役員会にはリモートで参加し、強烈なメッセージを全役員に伝えていました。
奥様から「湯川会長も含め、誰にもガンが転移しているとは言ってはならない」と亡くなってから聞き、ガン転移と抗がん剤の厳しい治療に対しても、微塵もその苦しさや不安等を見せない生前の対応に改めて彼の意志の強さを知った訳です。
生前「OSGが大好きだ」と奥様やご家族の方に常々言っていた事を知り、涙が止まりませんでした。コロナ禍において密を避ける為、家族葬をされましたが、改めて社内で法要を執り行ないました。生前、藤沢さんが使っていた机には遺影と花が飾ってあります。藤沢さんが使っていた椅子に社内結婚であった奥様に座って頂き、持ち物を整理して頂きました。
「主人はここに座って仕事をしていたのですね」と言われ、私自身新たな寂しさと何とも言えない複雑な気持ちになりました。
何もなかった創業の貧しい時代を一緒に這い上がって来た過程を知っている戦友をまた失い、この「人プラ」の本来の主役がまた消えました。
この「人プラ」は辞められたOSG元社員さん達も見ていると聞きましたので、お世話になった藤沢監査役の事を告知するためにも掲載しました。
(次回に続く)
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