代表取締役 湯川 剛

「燃える闘魂」「元気ですかぁ~!」「1・2・3・ダァー」「闘魂ビンタ」等のキャッチフレーズで昭和~平成のプロレスブームを牽引し、政界にも進出したアントニオ猪木(本名 猪木寛至)が10月1日に79歳で死去。お通夜が13日、東京都内にて「家族葬」で執り行われました。お通夜並びに翌日の葬儀告別式の模様は、テレビ・新聞一般紙・スポーツ紙全紙、またネットニュース等で報じられました。
今回からはお通夜および葬儀告別式の事を中心に取り上げ、その後、第519回の続きを掲載したいと思います。

もう既に多くの方々がご承知の事ですが、改めてお通夜の事について簡単にお話します。
猪木さんの場合のお通夜および告別式となれば予測不可能な参列者の数になり、会場等を短期間ではとても準備出来るものではありません。そこで猪木家ご親族だけの「家族葬」を執り行い、後日「お別れ会」を開催する事になりました。それらの事も後日、可能な限りお話ししたいと思います。

10月13日は朝から曇り空でした。
午前中、喪主である猪木さんの実弟啓介さんとお通夜・告別式の参列者リストの最終確認を行ない、お通夜開始は18時でしたが3時間前に会場入りしました。祭壇がまだ出来上がっていなかった為、その仕上がりを待つように猪木さんの棺は会場の中央に安置されていました。猪木さんのトレードマークだった赤いマフラーをイメージした装飾が施された祭壇には、プロレスラーや参院議員時代の写真も飾られていました。
通夜開始に間に合うようにと、新日本プロレスの菅林会長が新日本プロレスの象徴であるライオンマークの旗を持参してくれ、猪木さんが眠る棺を包むように飾りました。準備スタッフの一人が赤い闘魂タオルをその横においてくれました。
2日前の11日にアメリカから長女寛子さんとそのご子息すなわち猪木さんのお孫さん2人が来日。来日にはコロナや飛行機の関係から亡くなられてから2週間の日にちがかかりました。その間、猪木さんは一人安置所で待っていた訳です。私にとっても辛い2週間でした。
16時前に寛子さんとご子息2人が会場に到着。祭壇はまだ準備の最中でしたが、会場にいるスタッフ全員に退去して貰いました。会場には猪木さんと寛子さんと2人のお孫さんだけ。猪木さんが亡くなってから初めての対面です。
猪木さんは寛子さんやお孫さんに何を話されたのでしょうか。
静寂な会場。ドア越しではありましたが、何とも言えない気持ちになりました。

さて「家族葬」の話に戻します。
「家族葬」には当初120席の着席数を準備しました。親族の方および親族の親しい友人や猪木さんの同窓会の方々だけで約40席が準備されました。残り80席に対してどのような方に参列の呼びかけをするのかを遺族の方を中心に協議しました。特に猪木さんの場合、プロレス関係者や政界だけではありません。幅広いジャンルの方々とお付き合いしてこられました。
受付が開始される頃、弱い雨が降り出しました。次々と参列者の皆さんが来られました。
プロレスに興味のない方はプロレス界のスター選手の名前を言ってもなかなか分かって貰えないと思いますが、オカダ選手・棚橋選手などスター選手が新日本プロレスの木谷オーナーと会場入りしました。WWEで活躍しているトップスターの中邑選手はわざわざアメリカから駆けつけてくれました。
藤波・小川・武藤・蝶野・船木・タイガーマスクの佐山・小橋選手ならテレビ全盛期のプロレスラーなので分かって貰えるでしょうか。お通夜には野田佳彦元首相やデヴィ・スカルノ氏(デヴィ夫人)等も駆けつけてくれました。
「家族葬」の会場名は一切公表しない事をメディア各社に守って貰いました。そうしなければファンが押し寄せて大変な事態になります。お通夜が始まる前に猪木さんに最後のご挨拶をされて帰られる方も多々いました。その中のひとりに芸能界に大きな影響力を持っている会長が来られましたが、私は他の対応していたので気が付きませんでした。迎えの車が来る前に知ったので挨拶に行きました。K会長の「アントンの最後の面倒を見てくれてありがとう」と言われた言葉に目頭が熱くなりました。

お通夜が始まりました。
会場にはイノキ・ボンバイエのテーマ曲「炎のファイター」が流れています。
私は「炎のファイター」イノキ・ボンバイエ~♪イノキ・ボンバイエ~♪の曲を聞きながら、「猪木さん、何か言って下さい」と遺影を見つめていました。私はこの時、最前列に座っていたので会場後方の様子が分からなかったのですが、「準備した120席が満席になった」とのスタッフからの報告を受けて、安堵の気持ちと共に少し心配になりました。
私は焼香を終えて出口に向かいました。ご遺族の皆さんの依頼もあり、私も喪主である実弟啓介さん、長女寛子さんとご子息2人の横に並び立礼する事になりました。その時、会場の外に多くの方が並んでいる光景を見て驚きました。お通夜だけで333人の方が猪木さんとのお別れに訪れてくれました。会場を一切公表していないにも関わらずの出来事に今更ながらに猪木さんの知名度や功績に驚きました。

全ての参列者の方々が帰られた後、読経を頂いたお導師様から親族と親しい友人らに対して戒名について説明がありました。猪木さんの戒名は「闘覚院機魂寛道居士(とうがくいん・きこんかんどう・こじ)」。「闘魂の道、覚悟を決めて突き進む。魂を機(はた)らかす」との意味が込められているとの説明でした。
私はお導師様の説明を聞きながら遺影の方を見ました。
「猪木さんの戒名はこんな風になりました。今日も多くの方が猪木のお別れに来てくれました。でももしかしたら猪木さんは何故会場の場所をオープンにしないのか。多くのファンが来て多少会場周辺が大混乱になっても、それがアントニオ猪木だ!と、この運営に怒ってはいませんか」と猪木さんの遺影に問いかけました。

無事、お通夜も終わり遺族の方々や親しい方々で行なう「通夜振舞い」にも参加しました。
しかし、この日の内にしておかなければならない事がありました。
それは週刊誌にも取り上げられた「納骨」問題でした。

【後記】
前回も説明しましたように、この「人プラ」は5年以上前の出来事を振り返りながら記載しています。
今回は「人プラ」約18年にて初めて「現在の出来事」を年内に限り掲載したいと説明しました。その理由は「猪木さんの死去」に大きな影響があるとも説明しました。その理由も3つあると前回に掲載しました。
また掲載日が変更します。従来の月3回(1日・10日・20日)から「猪木さん関連」掲載に限り10月は25日にも掲載したいと思います。

(次回に続く)

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