代表取締役 湯川 剛

話は10月12日に戻ります。
明日はいよいよお通夜という事で、夜遅くまで準備をしていました。
帰り際、猪木元気工場の高橋社長とアシストの青木社長に「食事でも」と誘いました。
食事中の話題は当然の事ながら、明日のお通夜と告別式の事に終始していました。
「こんな葬式などして!もっとでっかくやれと猪木さんに怒られないか」が話の中心でしたが、途中から明日発売される週刊誌にもおよびました。事前に記事のゲラ刷りを入手していました。記事の内容にいろいろな意見が出ましたが、髙橋社長以外2人は少々お酒も入っていましたので、「遺骨問題は大スターの定番のようなものだ」と言い「大スターの証だから猪木さんも同様の問題を起こす」との事で週刊誌問題は収まりました。
帰る間際に、猪木さんの事だから「油断するな、まだまだあるぞ」と言われているようで、そんなにスムーズにお通夜や告別式を終わらせてくれる筈がない、というのがこの夜の3人の結論でした。

その週刊誌は10月13日、猪木さんのお通夜の日をまるで狙い撃ちするかのように「納骨問題」を掲載し発売されました。内容から誰が情報源かは分かります。
「なぜ、このような事をするのか」と非常に悲しい気持ちになりました。週刊誌の記事を掲載した記者さんには何の問題もありません。
記事のタイトルは『アントニオ猪木 遺骨争奪戦の「行方」』(死してなお〝燃える遺恨〟の火種)です。内容は生前、猪木さんが青森に「アントニオ猪木家」のお墓を建立した事にこの問題は発します。このお墓には三番目の奥様が納骨されています。
簡単に言えば、猪木さんの遺骨をその青森のお墓に入れるのか、それとも青森と鶴見区にある猪木家のお墓に「分骨」するのかについての記事です。そこになぜかしら私の名前も取り上げられていました。この記事は2ページにわたり後半はNHKの猪木さんの映像問題に関する事が書いてありました。前半の納骨問題には生前猪木さんと私との話があり、掲載されても仕方がありませんが、後半の映像問題に関しては私自身全く関与していません。記事を読んでもその意味すら分かりません。その事は既に弁護士を通じて伝えてありました。

さて「納骨問題」について話を戻します。
私は生前猪木さんが青森にお墓を建てた話は噂で聞いていました。それは本人の思う事があっての事であり、他人の私には全く無関係の話です。
ところがこの話が意外なところで出ました。それは猪木さん自身からです。
9月8日に私は猪木宅に訪れました。昼食に合わせてです。この日のおかずはキムチでした。介護をされる方が猪木さんが食べやすいように小さなおにぎりも作っていました。食欲のあまりない猪木さんにお付き合いする為に東京にいる時は仕事に支障がない限り、食事を一緒にしていました。この日もそうでした。その食事中に猪木さんから青森のお墓について話がありました。猪木さんの症状から「お墓の話」など避けたい話題です。
難病の「全身性アミロイドーシス」と戦っている猪木さんは、従来のように自由に話す事が出来ない為、重要な事しか言葉にしませんでした。そのような中で猪木さんから「お墓の話」が切り出されました。
「あんな遠いところにファンは行かないよ」といきなり言い出したのです。最初は何の話か分かりませんでした。それが「青森のお墓」という事が分かりました。そこで「ではどうして青森に建てたのか」を尋ねましたが、本人は「俺もよくわからないんだ」との事です。

これが猪木さんなのです。たぶん、そんなことはないと思います。でも時々、決まった事を簡単にちゃぶ台返しすることがあります。過去に私も何度か経験させられました。
こういう事が後々大きな問題を過去に引き起こしてきたのです。私も〝被害者〟のひとりです。私は「青森のお墓」に対しては部外者ですが、多分お墓建立の時もそれなりの理由があったのでしょう。しかし、猪木さんの一声で状況が180度変わる事はしばしばありました。ただ長年付き合っているとそれも含めて「アントニオ猪木」なのです。それを理解しなければ、なかなか付き合う事は出来ません。猪木語録「猪木の常識非常識」はまさに的を得た言葉です。私と猪木さんとはお互い「原告」と「被告」との関係が最近までありました。私の弁護士団も4人中2人は大の猪木ファンです。私達が訴訟する時「必ず勝って、それから面倒見る」が合言葉でした。私は勝訴し現在、その通りにしています。
そのように全てを包み込んで「アントニオ猪木」を楽しむ事なのです。
猪木さんの「俺もよくわからないんだ」の発言は、「またかよ」のような感じです。
多くの人が「裏切られた」と言うのはこの箇所です。裏切られたと言いながら「アントニオ猪木」から離れないのは、それ以上の魅力、いや魔力?があるのかもしれません。
それが「アントニオ猪木」なのです。実害にあった方も多くいて、泣き寝入りする人達も多く見て来ました。その為に疎遠な関係になった方も少なくありません。
ただ私の場合は、それと戦っただけです。そして「勝って、それから面倒見る」
これを理解するか、出来ないかの違いです。
だから週刊誌の記事によると(猪木さんと長く交流のあった知人)としての「お墓」についての発言がありますが、私から言えば、まだ「アントニオ猪木」を理解していないのです。

猪木さんの言葉から出たお墓についての話に戻します。
その時猪木さんは「猪木家のお墓は俺が生まれ育った鶴見にある総持寺だ」と言いました。私自身たしか4年前に日本機能水学会の会場が総持寺の近くでやった事を思い出しました。その学会に私も参加していましたので、ついでに総持寺に立ち寄った事もあり、覚えています。
「大変由緒あるお寺ですね」というと「石原裕次郎の墓もある」との話でした。確か品川駅から行けば恐らく20分もかからないでしょう。白金台の猪木さん宅からも車で30分以内です。猪木さんの師匠である力道山さんのお墓は池上本願寺(都内大田区)にあり、今もプロレスラーやファンの人達が命日等にお参りします。私も以前、猪木さんに連れられて行きました。そのような意味から言えば、青森は余りにも遠すぎます。
たぶん青森に建てた時には、いろいろな事情があったのだと思います。その日の猪木さんの話をまとめると、猪木さんの意思は「分骨」でした。ファンを誰よりも気にする猪木さんにとってみれば、極々普通の判断でしょう。この日私にいきなり「あんな遠いところにファンは行かないよ」と言った猪木さんの言葉が、それに通じます。
問題は、青森にお墓を建てた人にどう伝えるかが、その日の私の課題でした。

ところが2週間後の9月22日の事です。
この日も昼食の為に猪木宅に訪問する事を事前に介護関係者に伝えていました。私は玄関のドアを開けるなり先客であった人がいきなり「湯川会長、お世話になります。私はTです」と自己紹介されました。私はその時、T氏が青森で「アントニオ猪木家」のお墓を建立された方とは知りませんでした。彼の話から徐々にT氏の立場が分かりました。
私はコレはいいタイミングだと思いました。もしかすると猪木さんがこの機会を作ったのかもしれません。そこで私は猪木さんの前でT氏に前回の「分骨」についてお話をしました。何せ当事者のT氏なのです。しかも当事者の猪木さん同席でのお話です。
T氏も「分骨」には理解されました。その証拠に、私に「米粒ほどでもいいのです」と言われました。しかし私は親族ではありませんので、私に了解を求められても仕方がありませんが〝立会人〟としての立場で聞いていました。その時、実弟の啓介さんも猪木さん宅に来ましたので、「いい時に来てくれた。今、猪木さんとTさんとの話で青森と総持寺のお墓に分骨する事が決まりました」と伝えました。啓介さんもやはり青森が遠いと思ったのか、それはよかったとの事でした。

「猪木さんの意思が重要だ。よって青森に納骨すべきだ」との話がありましたが「猪木さんの最終意思」とは「分骨」です。週刊誌の記事ではありませんが「本人の意思を尊重すべきだ」は理解出来ます。よってこの日の発言が「本人の意思」になるのです。
しかも当事者のT氏と猪木さんが同席の下で「決定」した本人の意思です。
余分な事ですが、遺言状と同じように新しい遺言状が最優先になるのです。
私にとってもやれやれな結論でした。単に猪木さんが私だけに伝えたなら、なかなか周囲は納得しませんが、当事者同士が決めた事です。それだけにこの日の昼食は、大変意味がありました。この日の昼食はT氏が持参した高級マグロでした。私も頂きました。そういえば私は一度も差し入れなどしていませんでした。多くの方が猪木さんに差し入れをされます。この事で以前、私も差し入れをしなければいけないと猪木さんに話したところ妙に真面目な顔で「それは関係ない」と言った時の顔が懐かしいです。

さて「納骨問題」について話を進めます。
葬儀社から「明日の朝までに骨壺の事も含めて納骨について決めて下さい」と言われたのは、彼らも週刊誌等で「納骨問題」がある事を認識していたからでしょう。
この話は、当然の事ながら長女の寛子さんの耳にも入っていました。彼女は明確でした。
「断じて分骨はしない」との強い意見でした。
この寛子さんの意見に口をはさむ人はこの世の中に誰もいません。その権利もありません。
私は寛子さんに9月8日と22日の経緯を説明しましたが、私から意見を挟むことは一切しませんでした。寛子さんからアドバイスを求められる事もありませんでした。
お通夜が終わった後、寛子さんとT氏とが話し合いの場を持ちました。寛子さんは私を〝立会人〟として聞いてほしいとの事でした。彼女はT氏に向かって「パパの遺骨は私がアメリカに持ち帰ります。私のアメリカでの生活をパパに見て貰い、その後、日本に帰った時には鶴見のお墓に入れます」と明確にT氏に伝えました。T氏はこの時も「分骨」をお願いされていました。T氏の今までの経緯を考えれば、T氏の気持ちも痛いほど分かります。しかし私は「寛子さんの考えが決まった以上、私は〝よくわかりました〟という以外はありません」と2人に伝え、その場にいる必要はなく退席しました。この間、数分間でした。
猪木さんの最終意思は「分骨」です。これを寛子さんが「分骨はしない」と言い切りました。私は「猪木さん同様、寛子さんも〝ちゃぶ台返し〟をやっちゃった」と思いました。
この「納骨問題」は寛子さんの一言で一件落着です。

生前猪木さんが何度と言われた言葉があります。「俺はこの世で寛子が一番怖い」。
この言葉は猪木さんと親しい方なら、殆どの方は知っています。この言葉は愛娘寛子さんに対する愛情です。「一番怖い」は「俺は一番弱い」と言っているのです。私の知る限り猪木さんは、寛子さんのお願い事は殆ど聞いているのではないでしょうか。
世界のヒーロー、世界最強の男「アントニオ猪木」が誰にも見せないパパの顔です。

お通夜の全てが終わりました。帰ろうとしたら、外は冷たい秋雨でした。
明日はいよいよ最後のお別れの葬儀告別式です。
帰りながら「猪木さん、こんな感じですみません」と言いました。

(次回、11月1日に掲載します。)

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