代表取締役 湯川 剛

桐ケ谷斎場は告別式会場の同敷地内に火葬炉があり、都内でも大きな斎場だと聞いています。桐ケ谷斎場では火葬炉がある部屋を特別賓館と呼ばれていると聞きました。
その特別賓館にご遺族の方と生前猪木さんがお付き合いしていた同窓生の方々やごく親しい方だけがに集まりました。ご自宅での弔問からお通夜と告別式にお参りして頂いた藤波辰爾ご家族の皆さんや蝶野選手、IGF時代の小川・藤田・澤田選手らも最後のお見送りに集まってくれました。

火葬炉に入る前に一回限りの焼香があり最後のお別れの時間があります。施設の方が「最後のご挨拶をされる方は近寄って下さい」と言われご遺族の方を中心に参列者の方が集まり最後のお別れをしました。
私は告別式のお別れに棺の中に花を手向け、もうそれが最後と決めていました。なので火葬炉でのお別れはやらないと決め、参列者の皆さんの最後のお別れを部屋の隅で見ていました。全ての方の最後のお別れが終わり、施設の方が最後の念押しのように「最後におられませんか」と言われました。もう会わないと決めていたのですが最後の最後になってたまらず棺の前にいき、大きな声で「会長、ありがとうございました」と「今生のお別れ」をしました。

棺が火葬炉の中にゆっくりと入ります。私は急に猪木さんが可哀そうに思いました。
10月1日に亡くなって以来、猪木さん宅で初めてご遺体と対面してからお通夜や告別式まで何度も猪木さんと心の中で話をし、何度も「ありがとうございました」と呼びかけましたが、一度たりとも「可哀そう」という感情はありませんでした。しかし火葬炉に入った瞬間に何故かしら最後の最後になって「可哀そう」という感情が湧き出てきました。
今まで多くの人に見守られていた猪木さんが火葬炉に入れられ、急に「ひとりぼっち」になったような気がしたからだと思います。
もし周りに人がいなければ、私は子供のように大きな声で泣いていたと思います。

特別賓館で最後のお別れをされた方は、誰一人帰られる事なく控室に移動しました。ご遺骨のご収骨に立ち会う為です。控室には飲み物などがありました。殆どの人はお茶等ソフトドリンクを飲んでいましたが、私はビールを頂きました。

2時間程が経ったでしょうか。係の方からの呼びかけで特別賓館に行きました。
猪木さんのご遺骨との対面です。
火葬炉引き出されたご遺骨に施設の方がいろいろ説明をしていました。その時「人工骨がある」と言われました。5センチ程の金属製のボルトが3本一つになったものが2つ出てきました。実は生前猪木さんが「腰が痛い」という事で車いすに座っているのが30分~1時間までです。その時、私達の間で猪木さんの体にボルトが入っていないかという話題になりました。それが化膿して痛いのではないか。それならそれでその対応すれば痛みが和らげるのではないかと話した事があります。その時、猪木さんに確認したところ「腰にボルトは入れていない」との事でした。しかし、金属製のボルトが出てきた訳です。勿論、これが痛みの原因であるかどうかは分かりませんが気になりました。寛子さんがそのボルトをしっかりと白い布に包みご子息に渡されました。猪木さんの体の一部です。
ご収骨には2人で箸渡しで骨壺に入れていきます。参加者の皆さんは静かな作業でした。
ご収骨後、親族の皆さんや猪木さんのお友達の皆さんは「精進落とし」と呼ばれる食事会に呼ばれました。私も参加させて頂きました。奥の棚に猪木さんの遺影と骨壺が置かれていました。横に新日本プロレスのライオンマークの旗が敷かれていました。

私はこの時もビールを頂こうと思いました。喪主の猪木啓介さんがやってきて私に「献杯のご挨拶を湯川さんにやって貰います」と突然指名されました。
私は猪木さんの遺影に頭を下げ、ご遺族の方や猪木さんの同窓生の方々に向かって、亡くなってからずっと感じていた自分の本心を伝えようと思いました。その時の挨拶の細かな事は覚えていませんが主な内容をここでお伝えします。

まずご遺族の方に対し改めてお悔やみを申し上げました。そして次のような事を言った事を覚えています。
『私は「アントニオ猪木さんの人生劇場」のごくごく一場面に猪木さんと出会いさせて頂きました。猪木さんの人生劇場での場面々では凄い人達ばかりです。そんな中で私は本当に僅かな場面で出会っただけです。その中で多くのいろいろな刺激を頂きました。猪木さんと出会って心から感謝でいっぱいです。猪木さんは本日をもって歴史的人物になりました。坂本龍馬と同じです。このような人と出会って本当にありがとうございました』そんな発言でした。そして皆さんに「献杯」といい、遺影の猪木さんの前においてあるお酒に献杯をして、ビールを頂きました。

その時の挨拶から改めて少しだけ、説明を追加して掲載したいと思います。
私は「猪木さんの人生劇場」の僅かな場面にしか登場していませんと挨拶の中で言いました。猪木さんの生涯を考えた時、とんでもない人々が登場します。同じ登場人物でも私とは違います。亡くなって改めてテレビなどで猪木さんが行なってきた事が知らされました。
また亡くなられてからいろんな方々が猪木さんについての思い出を発信されています。
中にはそれが「アントニオ猪木」の全てのように批評されたりする人もいます。しかし私を含めて本当の「アントニオ猪木」は誰も分からないのではないでしょうか。私と同じようにたまたまアントニオ猪木の人生劇場の一場面に出会っただけだと思います。
先日、寛子さんが猪木さんの財布の中に大切に保存していた写真を数枚見せてくれました。おじいちゃんと小学低学年くらい猪木少年の写真や大勢の家族の中でお父さんの横に座っている幼い猪木さんの写真。二十歳前後の丸々と太った猪木さんと啓介さんの薄いカラー写真。財布の中に大事に入れられたセピア色した写真数枚を見ながら私は猪木さんがどのような時にこの写真を財布から出して見ていたのでしょうか。私はそんな場面の猪木さんを想像したことはありませんが、誰も知らない「アントニオ猪木」のシーンです。嬉しい時より寂しい時に見ていたのかなぁ~と勝手に想像しています。

「アントニオ猪木」を語る時、少しは謙虚であった方がいいと思いました。
スーパースター「アントニオ猪木」。この称号に私は何の貢献もしていません。特に多面性豊かな猪木さんです。彼の性格の傾向性は語れても真の猪木さんを語る事は誰も出来ません。
今後も「アントニオ猪木」という稀代のスーパースターの伝説は語り継がれて行くと思います。そして歴史上の人物になります。

そんな猪木さんの人生劇場の僅かな場面でも出会った事に改めて感謝したいと思います。

【追記】
無事にお通夜及び葬儀告別式が終えました。
無事に終えた事に多くの方のご協力がありました。
葬儀社のベル株式会社(渋谷区)の志村様はじめ、スタッフの皆さんの献身的な対応に感謝しています。またアントニオ猪木のマネジメント会社「猪木元気工場」の髙橋社長やアシストの青木社長、そして長年アントニオ猪木のマネージャーを務めていた宇田川強氏や元IGF広報担当の井野恒氏をはじめ、猪木さんと長く接して頂いていた仲間の力のお陰です。
介護チームの方々も手伝って頂きました。改めて心から感謝します。
アントニオ猪木が亡くなった時の社会的肩書は、「新日本プロレス終身名誉会長」です。
この就任に協力して頂いた木谷社長、菅林会長ら新日本プロレスの関係者及び選手の方々の協力もありお通夜及び葬儀告別式が営まれました。ありがとうございました。
そして何よりもアントニオ猪木さんと長年交流されていた方々がお通夜及び告別式に駆けつけてくれました。参列者の皆様方のご協力抜きで無事にお通夜及び葬儀告別式が終える事は出来ませんでした。深く感謝します。

(次回、11月10日に掲載します。)

次回から文章の内容によって「猪木さん」の「さん」付けで掲載しない場合があります。
私の中で猪木さんは歴史上の人物になった訳です。
坂本龍馬さん、織田信長さんと呼ばないのと同じです。
次回からは文章の内容によって「アントニオ猪木」または「猪木」と書かせて頂きます。

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