代表取締役 湯川 剛

告別式も終わった日の15時すぎ、私は部屋に戻って、ここ数日間の睡眠不足もあったのか、うとうとと横になっていました。すると10分もしない内に実弟啓介さんから電話があり「もし湯川さんに時間があれば、兄貴の部屋に来てもらえますか。寛子も待ってます」との事でした。
私は身支度をして白金台のアントニオ猪木宅を訪問しました。
通いなれた猪木宅ですが、今日からは主のいない猪木宅です。
この部屋は病症の猪木自身が希望した治療・介護・生活をするために準備した部屋です。
この部屋には猪木が会いたい人や猪木に会いたい人達が集まる憩いの場所でした。36階の最上階からは富士山も見えます。ここで多くの人が訪ね、笑顔で食事をし、お酒を飲み、それを嬉しそうに笑っている車いすの猪木の最後のお城になりました。
そんな部屋に、骨壺に入った猪木の遺骨と遺影がお線香と共に祀られていました。
私は神妙な気持ちで手を合わしました。改めて「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」の一節を思い出しました。まさに平家物語の祇園精舎の「諸行無常の響きあり」です。
骨壺に向かって「猪木さん」と呼びました。

啓介さんに呼ばれた用件を寛子さんらと話し、その後の対応に対して相談に乗りました。
話が終わりかけた時、私がお願いした「猪木さんからの形見」について話が出ました。
以前、寛子さんに「猪木さんの形見としてCDを1枚欲しい」と伝えました。このCDは亡くなる2日前、私と最後のお別れになってしまった9月29日の時の話です。猪木が眠るまでと私は猪木の手を握っていました。猪木の部屋には時々、歌が流れています。介護の方に聞くと懐メロであったり演歌であったり、時には軍歌もあるらしいです。その時は部屋に流れていた歌が懐メロ「白い花の咲く頃」でした。この歌を聞きながら私の手を握り眠りについた訳です。このCDを形見に頂けないかとお願いしました。

寛子さんは快諾して頂き、1枚でなく部屋にあった「懐メロ」「軍歌」全集や落語のCD全てを頂く事になりました。しかしそうなると私が頂く形見ではなくなってしまいます。
「晩年、猪木が聞いていたCD」としてのアントニオ猪木の遺品となります。
その為にマネジメント会社「猪木元気工場」に渡す事を寛子さんに伝え了承して貰いました。

帰る間際に啓介さんが「寛子親子が兄貴の遺骨と今夜は一緒にここで泊まります。でも明日からは兄貴の遺骨を持ってこの部屋を出る」との事でした。そこで私は「明日から帰国する日までの1週間はどこにいるの?」の問いに「パパの遺骨をもってX宅に行く」との返事でした。私は「そうなの」と言いました。
さて寛子さんはどこにいくのかは、皆さん方の想像にお任せします。

翌日に私と実弟啓介さんとで猪木家の菩提寺である曹洞宗の大本山総持寺(横浜市鶴見区)に告別式でのお礼や四十九日法要の相談に訪問する事になりました。
品川駅で啓介さんと合流。啓介さんが運転する車で総持寺まで30分もかかりません。
電車での移動では品川駅から鶴見駅まで京浜東北根岸線で18分です。東北の玄関口である上野駅までも同じくらいの時間です。鶴見は改めて近いと思いました。
さて啓介さんが運転する車は既に大本山総持寺に到着しました。
寺院の資料によりますと開創は、700年余もの昔にさかのぼる由緒あるお寺です。
15万坪の寺域を有し、山内には、学校法人総持学園として、三松幼稚園、鶴見大学附属中学校・高等学校、鶴見大学、さらに社会福祉法人諸岳会として、總持寺保育園、精舍児童学園等を経営されています。以前この鶴見大学で日本機能水学会があり、私も一度訪れました。この由緒ある総持寺が猪木家の菩提寺であり立派なお墓もあります。
アントニオ猪木が生前その事を誇らしげに話をされ「石原裕次郎のお墓もある」と言われたことがあります。次は「アントニオ猪木のお墓」でも総持寺は有名になります。
壮大な総持寺ですが、啓介さんは通いなれた寺院らしく迷うことなく車で入っていきます。車を止めて受付に行きました。そこでお通夜及び葬儀告別式でのお礼を述べ、四十九日法要の日程も決めました。受付の僧侶と女子事務員も「アントニオ猪木の納骨」に対していろいろな問題がある事を知っていたような様子でした。四十九日法要の日程もほぼ決まり、その後、猪木家の墓地を案内して頂きました。「猪木家のお墓」は総持寺の墓地においては一等地の場所にあり、大変立派なお墓です。そこに猪木寛至の納骨が入ることに何の問題もないというのがお寺側の説明でした。余分な事ですが僧侶に総持寺の墓地の価格を聞き、びっくり仰天しました。同時にアントニオ猪木が眠るのに相応しい場所だと思いました。

さて受付の僧侶に「猪木家」の告別式に導師の役をされた僧侶の方にお礼を伝えてほしいとお願いしました。その理由として告別式でのハプニングについてお話をしました。
勿論ハプニングそのものをお話するのではありません。その後の導師役をされた僧侶の見事な対応についてです。私が告別式の時にそのハプニングを「猪木のいたずら」と言った事について少しお話したいと思います。

告別式の読経が始まりました。ご導師様が立ち上がりお経を唱えた後に、後ろにある椅子に座ろうとした時です。なんとご導師様がひっくり返り祭壇から瞬間消えた状態になりました。会場は一斉にしんとなりました。椅子が壊れてしまっていました。それが原因でしょう。会場の担当者らが申し訳ありませんと別の椅子を用意しました。ご導師様は何事もなかったように、読経が始まりました。ご導師様の堂々とした振舞いに安堵な気持ちになり、同時にご導師様に申し訳ない気持ちにもなりました。
その時私は隣の席にいた株式会社猪木元気工場の高橋社長に「猪木さんのいたずらだ」とささやいたあの場面です。遺影の猪木の顔がいたずらした時のいつもの笑顔になっていたような気がしました。「猪木さん、やっちゃった」
当然の事ながら後日、そのことについて葬儀社の担当者と話題になりました。なぜ、簡単につぶれるような椅子を置いてあったのかという事です。ところが、椅子はその日に初めて使う新品だったそうです。
ここからが私が感動した話です。控えに戻られたご導師様や僧侶は当然の事ながら、会場に注意を促すと普通は思いますが、そうではなかったらしいです。ご導師様自身が「いや、アントニオ猪木さんのいたずらでバックドロップを掛けられた」と言われたらしいです。
ご導師様の発言は凄いです。「猪木のいたずら」と機転を利かしての対応です。
さらにそれを「バックドロップ」と表現されました。もしかすれば、ご導師様はアントニオ猪木ファンかもしれないは私の余分な考えです。

話は四十九日法要に戻ります。
日程もほぼ決まり啓介さんに「次は四十九日法要を無事終える事です」と伝えました。
そして1日も早くファンの皆さんに「お別れの会」の日程をこの四十九日法要でお知らせしなければなりません。また帰国する寛子さん自身も「お別れの会」の日程を早く決める事を強く望んでいました。
私自身も「四十九日法要」と「お別れの会」までが、アントニオ猪木に対しての役目です。

(次回、11月15日に掲載します。)

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