代表取締役 湯川 剛

猪木から「ぜひ会いに来てほしい」という事で、2021年10月28日に実弟の啓介さんと後のマネージメント会社になる「株式会社猪木元気工場」の髙橋社長と一緒に猪木宅を訪問する事になりました。
前回お話ししましたように、その日が某週刊誌に私と猪木とのネガティブ記事が発売日でした。記事の内容から誰が情報源かは分かります。2人が直接会う事に困る人達です。週刊誌がこの事に利用されたのでしょう。それにしても記事では2人が不仲になっている間柄の猪木が私を呼び、面会に行く日が発売日とは、皮肉った話です。

啓介さんの案内で初めて猪木宅を訪問する訳です。
築50年以上を感じる10階建てのマンションのようでした。恐らく場所柄を考えれば当時は最先端のマンションだったと思いますが、スーパースターアントニオ猪木の住居にしてはいささか違和感を感じました。ちなみに猪木にカメラ撮影をするためにこの部屋に訪れたテレビ局の人達からも後日同じような感想を聞いたことがあります。

話を戻します。私と髙橋社長と啓介さんがマンションの入口で合流しました。
マンション玄関で啓介さんが「兄貴と約束をしている」とインターフォン越しに同居人らしき人に連絡をしました。しかし相手は「聞いていない」と面会を拒否しました。「では、兄貴に確認してくれ」に「寝ている」との事でした。このようなやり取りに15分以上かかりました。猪木本人が会いたいと言っているのに、異常なほどにそれを拒否をし、マンション入口のドアを開けないのか、困惑するよりむしろその対応に正直気持ちが悪くなりました。こんな人もいるのだ・・・。
そうこうしているしている内にこのマンション住民が出てきたタイミングで入り、そのまま部屋にいきました。玄関で多少のやり取りはありましたが、猪木自身のか細い声で入ることができました。
あまりこの部屋の事については書きたくありませんが、スーパースターアントニオ猪木にはあまりにも不釣り合いな感じが最初の強烈な印象です。玄関から入ってすぐ右側の部屋に大きな猪木はベッドに寝ていました。私はこの光景に少なからずショックを受けながら、自分自身に「相手にも事情がある」と言い聞かせました。例えば「トイレが近いからこの部屋なんだ」と自分自身に納得するように部屋に入りました。
2人が交わした最初の言葉は8月の電話口と同じ「すみません」でした。私は猪木にお見舞金を渡し、自分の顔を険しくしないように努めました。それは「こんな部屋に・・・」を猪木に感じさせたくなかったからです。最初は同居人を交えて15分程度、状況について話し合いました。その後、猪木は同居人が部屋に居ないことを確認して、啓介さんと髙橋社長を部屋に出し、私だけを残して2人きりになりました。猪木は自分の顔に近づくよう私に指示をしました。猪木の口元に私の耳を近づけました。彼と出会って40年。こんなに近づいた事はありません。猪木は私の耳元で弱弱しいながらしっかりとした口調で話しました。

私は、これが本日の猪木の「会いたい!」と言った目的だという事が分かりました。
この時の猪木は話す事すら大変なエネルギーを費やしています。それだけに余計な話はしません。むしろ、一言一言が彼にとっては重要な内容なのです。

ここでは具体的な内容は避けますが、
1つは「この部屋から何としても出たい。出してほしい」との事でした。
私は耳元で「わかりました。必ず出します」と手を握り伝えました。
2つ目は「自分は今日まで見られて生きてきた。輝いて逝きたい」との話でした。
私は「猪木さんは、まだ大丈夫です」と少し笑顔で伝えました。
特にここで詳細な内容を明らかには出来ないのが3つ目の話です。
「調べてほしい事がある」との依頼でした。
私は更にしっかりと目を見て「よくわかりました」と言いました。

私はこの場面を死ぬまで忘れないでしょう。僅か数分の会話でしたが生涯忘れません。
私は「わかりました」と言った後「3つのメッセージ」を再確認し、この日の場面を私自身の記憶にしっかりと残すため、2人で慣れない自撮りで写真を撮りました。

当時猪木は「人間の尊厳」という言葉をよく使っていました。お互い電話連絡し合ってからも何度となく電話口から「人間の尊厳」という言葉を猪木から聞きます。
また何人かの人達からも猪木の「人間の尊厳」という言葉を聞いたことがあるとの事です。テレビのインタビューでもこの言葉を使っていました。
「人間の尊厳」という言葉をこの日の訪問でその言葉の意味がよく理解しました。

マンションを出た私と啓介さんと髙橋社長はすぐ駅の近くの喫茶店に入りました。今日起こった状況を確認し、「まずは猪木さんをあの部屋から出さなければならない。救出作戦だ」と真面目な顔をして「救出作戦」という言葉を使いました。
本来なら実弟の啓介さんが「兄貴が出たい」と身内が言えばいいのに、なかなかそれが通じないとの事です。その最大の原因は、猪木が自由に動けないという事です。私達には分かりませんが、相手サイドにも猪木を出したくない何か言い分があるのでしょう。「いいか悪いか」の善悪では判断できない理由が相手サイドにもあるかもしれないからです。だから安易に相手サイドの行為を批判するだけの話は避けました。
ただどのような事情があろうが、大の大人が「この部屋から出たい」と言っている事実がある訳です。そこに何の理由があろうとも重い病気に伏せる本人が訴えている訳です。私達はその場で弁護士にも電話をし、その事実を伝えました。「人権問題」で部屋から出せないか等も確認しました。
喫茶店での協議の結論は「実子の寛子さんに動いて貰おう」となり、「渡航費用は全て負担するのでアメリカにいる寛子さんに来日して貰う」事になりました。
翌日、啓介さんから電話があり「寛子の来日可能」と連絡がありました。
しかし実際にはコロナ等にて来日にはかなりの時間がかかることになりました。その結果、寛子さんが来日したのは葬儀への参加という残念な出来事です。悔やまれます。
ただ、もし来日が実現していたならば、寛子さんは「あの部屋」をみる事になり、それが良かったかどうかは私には悩ましい問題です。

この日から私は代理人に更に強く「和解」について動いて貰いました。
猪木からのメッセージ以降、電話で「いつ出れる」が猪木の言葉です。私は「もう少し待って下さい。和解の手続きはしています。もうすぐです」の言葉を繰り返すしかありません。一向に前に進まない状況に正直、代理人の交渉に「なぜ、進まないのだ」苛立っていた事もありました。勿論、双方の弁護士先生達は頑張って頂いていました。
それでも猪木サイドはいろいろな理由をつけ、拒否しました。「猪木を動かせば、命に係わる」という話も間接的に聞きました。相手側の代理人が猪木サイドに説得をしているという話を聞きましたが、私の代理人から言えば、相手の代理人の動きが遅いとの事でした。
その間、猪木はどのような気持ちであの部屋のあのベッドの中でいたのでしょうか。猪木の事だから私より忍耐強いので「必ずこの部屋から出てやる」とベッドの中で強く念じていたと思います。その「念い」こそ、身動きの取れない不自由な体の猪木でしたが、猪木が唯一自由に使える「念いのチカラ」だと私は思っています。その猪木の「念いのチカラ」が私を強く突き動かしているのです。
そして秋が過ぎ、冬が来て年が明け、春になり、それでも事態は動きません。

2月7日15時。猪木に呼ばれ、私と啓介さんと髙橋社長とが猪木宅に行きました。
しかしこの日は同居人から門前払いをされました。「猪木からの依頼でわざわざ大阪から来たのだ」と言ってもマンション入口のドアは開きません。前回のようにマンション住民が出てくるタイミングで入る事はやめました。私は「帰ろう」と言いました。あまり強引にやる事でその後の猪木の状況が分かるからです。その理由はここでは言いたくありません。ただ身動きの取れない猪木自身が一番辛いのです。猪木の「人間の尊厳」に関わります。

事態が進まない状況の中で、啓介さんから「兄貴が是非会いたい」との連絡が入り、3月7日に面談する事になりました。しかし、この日はあの部屋の中ではありませんでした。ホテルオークラでの面談です。前回と同じように、啓介さんと髙橋社長も同席です。私は「なぜ、わざわざホテルオークラで会わなければいけないのか。動かすと体に差し支えると聞いている」と伝えましたが、相手側は「部屋は親しい友人以外は合わない」との事に、私は反論しようと思いましたが止めておきました。
ホテルオークラの個室で待っていると車いすの猪木が来ました。私達4人だけです。
この時も猪木は声を絞りながら「人間の尊厳がない。全て否定されている」と外で待機している同居人に気を使い小さな声で話しました。この時の話は「実印は同居人が保管している」事や「マネジメント会社は髙橋社長に見てほしい」と言いました。約束の1時間が過ぎ、出る間際に「3つのメッセージは必ず実行します」と再約束をしました。

その間にもいろいろな人が猪木に介入してきます。
5月には、猪木にY社会長が「湯川さんとの和解はやらない方がいい」と告げているとの情報が啓介さんから入りました。私は即座に「それでは、その会長に解決して貰って下さい」と伝えたところ、翌日そのY社会長から辞退するとの報告を聞きました。たぶん猪木は私だけでなく、3つのメッセージを他の人にも言っているのでしょう。私にも連絡がありました。あまり親しくないO社長から電話があり、「猪木の件は自分達が間に入ってもいい。大した金額ではないんだろう」に、私は「金額は人によって判断に違いがあると思うが」と言って金額を提示したところ、「それで解決出来るんだ」と言ったまま、今日まで何の連絡もありません。殆どの人が「口は出すが金は出さない」人達でした。

私が「和解」がスムーズに進める為に出した条件は
すでに判決の出た敗訴の支払金額の利息の約2000万円は全額放棄する事にしました。
特に猪木は「敗訴」に対して非常に気にしていたのが、それから発生する支払利息です。
更に未判決案件の請求額は「都心の億ション購入額」程でしたが、それも全て取り下げる事としました。それに加えて「和解」の条件に
「猪木の生涯までの生活費用」すなわち部屋の準備から24時間完全介護や病気における治療費用までの全てを私がみる事を条件に「和解」の行動をとりました。
猪木の置かれている状況や病状からも、一刻も早くあの部屋から出さなければならない事が最大の目的であり、猪木から言われたメッセージの約束を守る為でした。
原告と被告との関係でこのような取り決めは、長い弁護士生活で初めてだという弁護士先生もいました。

7月20日前後になって急に「8月2日に猪木さんが出れます」と代理人から連絡が入りました。具体的な日にちが提示されての連絡でしたが、私自身「やっと来たか」と嬉しさ半分の気持ちもありましたが、半分は当日を迎えるまでは分からないという気持ちがあるくらい、半信半疑でした。それ程、猪木サイドからまた何を邪魔してくるか分からない心境でした。

2022年8月2日。ついにこの日が来ました。
ちなみに「脱出」した8月2日。この日は愛娘寛子さんの誕生日でした。

次回は、11月25日に掲載します。

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