代表取締役 湯川 剛

2020年1月10日。OSGの役員会が開催されました。原則は第1金曜日の開催です。
昨年に飛躍した「銀座仁志川」がOSGグループの成長エンジンになり得るか、が役員会の議題になりました。
1月11日。全国拠点長会議がOSG本社で開催されました。原則、第1土曜日です。
1月17日には、私は中国の青年、王軒君と銀座本店でミーティングを行いました。話した内容は「中国進出の将来図」についてです。3年後の2023年4月に「銀座仁志川・上海」がオープンし、社会現象を起こすなど、この時はゆめゆめ思っていませんでした。この話は後日しましょう。

この時期、毎週土曜日に「創立50周年記念事業」に向けて役員ミーティングを重ねていました。1月25日土曜日。この日も9時から大阪本社・東京本部をつないでのテレビ会議を行いました。この時、私は「来期、即ち今年の夏に創立50周年を迎えるにあたり、私の我がままを聞いてもらいたい」と発言しました。
1970年にOSGを創業して、今年で50年を迎えます。既に、「人生はプラス思考で歩きましょう(略「人プラ」)」で掲載済みですが、創立25周年の社内行事で1996年にハワイに行きました。その場で「60歳で社長を退任する」と49歳の時に宣言。社内ではこれを「ハワイ宣言」と言っています。その約束通り2007年4月に社長を退任し、会長に就任しました。社長交代時に、社長と会長の事業領域を明確にしました。溝端社長はOSGの本丸を守る。会長となった私は、OSGの事業領域を拡げる為に新事業の立ち上げを行い、未来ビジネスに特化させてもらいました。
会長就任後、13年の間に水宅配事業や中国事業、近々では銀座仁志川による「食」事業の立ち上げをしてきました。これも、溝端社長がしっかりとOSG本丸を守っていてくれたからこそできた事です。

その私が、「50周年を迎えるにあたり、1年間だけ我がままを聞いてほしい」と言いました。話の内容は「空席になっているOSGの営業本部長に就任させてほしい」との話です。本音のところは営業課長になりたかったのですが、不可能な話です。
実は、私は23歳で独立したので、生涯一度も営業課長職に就いた事はありません。実のところ、営業課長職にあこがれていました。理由は思いっきり力が発揮できるポジションだからです。しかも、営業最前線が現場です。多少向こう見ずであっても、許してもらえます。「課長・島耕作」ではありませんが、「課長・湯川剛」になりたかったのです。
もう1つの理由は簡単です。私のような課長がいれば、OSGの若手課長らにどのような影響を与えられるか。私の相変わらずの妄想です。絵空事をこの歳でも持っていました。しかし、課長就任など現実にはあり得ない事です(現実に可能なら本当にやってみたいです)。そこで、ギリギリの許容範囲が「営業本部長就任」です。当然、溝端社長は拒否しても当たり前の提案です。だからこそ「私の我がままを聞いてほしい」とアプローチトークとして使いました。このような「鶴の一声」は絶対に行使してはいけません。何故なら、そのような事をすれば組織はもたないからです。それは私も十二分に理解しています。
「創立50周年」・「私の我がまま」・「1年間だけ」を前面に出して、この日の役員ミーティングで話を切り出しました。多分、溝端社長は渋々受け入れてくれたと思います。

こうして、私は13年ぶりにOSG本丸で空席であった「営業本部長」に就任する事になりました。

何故こんな無茶ぶりな生涯最後の「営業本部長」に就任したのでしょうか。

次回、8月1日に掲載します。

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