ここ数回の「人プラ」は、OSGの社内資料的な内容であまり興味が湧かない話だったと思います。OSG幹部からの要請もあり、社内的に残しておきたい内容でした。私自身は、この時期のコロナ禍において一秒たりとも気が抜けない状況であった事も事実です。わずか4、5年前の出来事でありましたが、私自身も忘れているところがありました。このコロナ禍は、色々なものを失い、色々な事を体験しました。その1つが「三密」です。
本日は少し切り口を変えて、当時のお話をしたいと思います。
この時期、社員さんやお客様との食事会が出来ない状況でした。それをどうすればいいのか、何かいい工夫がないか、と考えていた時の話です。
話はガラリと変わります。
2020年5月4日(祝日)。私は、プロレスリング・ノアの役員と川崎駅で合流しました。プロレスリング・ノアの「無観客試合」を見せてもらうためでした。「無観客試合?」というものがどのようなものか、興味があったからです。
ここで少しプロレスリング・ノア(略 ノア)との関係をお話しておきたいと思います。
よく「ノアのリングマットにOSGのロゴがあるが、協賛しているのか」と聞かれる事がありました。プロレスに興味のない方は別にして、プロレス界においてどちらかと言えば「アントニオ猪木さんがOSGのCMに出演した関係から、新日本プロレスのリングマットに広告宣伝費を協賛しているのは理解できるが、何故ノアなの?」と聞かれます。実は、OSGはノアの広告宣伝費を協賛しているわけではありません。もう少し具体的に伝えると、OSGは広告宣伝費をノアに支払っているわけではありません。
当時、ノアを運営している社長から私個人に「ノアに出資してもらえないか」と頼まれた事がありました。猪木さんがオーナーのイノム・ゲノム・フェデレーション(略 IGF)が中国でプロレス開催する時、協力してくれたのが新日本プロレスでなくノアでした。
その関係からの依頼です。数年後、そのノアにネット広告事業最大手の「サイバーエージェント」が株式獲得に動いたとの事です。この時、私が保有している株式が問題になりました。私自身、ノア株を売却する理由もなく、可能ならそのまま保持したい旨を伝えました。しかし、サイバーエージェントのノア買収の条件が「全株式譲渡」であり、それ以外であればこの話は成立しない、との事でした。そこで私は「株式売却のお金はいりませんので、全て寄付します」とサイバーエージェントから派遣された法務部長に伝えました。
同席していたノア役員が「カッコイイ」と発しましたが、私としては元々、投資した時から戻ってこないお金だと思っていました。法務部長も私の提案に驚かれ、本社に確認するので待ってほしい、という事でした。本社との協議の結果、「湯川会長の申し出は喜んで受け入れます。その代わり、5年間メインスポンサーとしてリングマットに広告宣伝をしたい」との申し出がありました。そんな関係からのお付き合いです。
さて、話を戻します。
川崎駅で役員と合流した私は、何か差し入れをしようと思いましたが、ふと何を思ったのか封筒と筆ペンを買いました。封筒の表に「めし代」と書き、それぞれ1万円を入れました。この「めし代」が後々OSG社内でも採用されました。
コロナ禍にあって社員さん達との食事会ができない事への対応になったわけです。確認はしていませんが、多分社員さんは私と食事に行くより、「めし代」を受け取った方が良かったと思います。
ノアの「無観客試合」を観戦(?)後、私はノア役員に選手を励ますために「毎月1度はノアの試合に『めし代』を持参して1年間だけですが観戦します」と約束しました。ところが「毎月1回のノア観戦」の約束は、私のスケジュール調整で実のところ大変でした。
こんな約束はしない方がいいな、と思いましたが、練習生も含めて「めし代」を楽しみにいるノア選手もいるのではないか、と頑張りました。
この時の「めし代」は主力選手も練習生も中身は同じです。そんな思いを理解していただいたのか、1月にはノア選手の人達から私への誕生日プレゼントをいただき、この企画をした事がよかったと思います。
OSG社員さんも含めて、1年間でのべ1000人に「めし代」を配りました。
「めし代」はコロナ禍の副産物です。
【追記】
今年も無事「お年玉」を配り終えました。今年は2000枚を準備しましたが「絶好調」の結果です。私の手元に数十枚残っていますが、これも1月中に取りに来れない方の「預かってほしい」との数十枚です。今年も定年で辞められたOB社員は勿論の事、辞めた社員さん達も取りに来ました。私は最近「50枚集めるとハワイ行きですよ」と冗談を言っています。50枚集めるためにはあと何十年も私が頑張らなければだめです(笑)。
今年、「お年玉」でこんな話がありました。
あるお店のS店主が私に「40年間いただきました」との事です。
Sさんは21歳の時、その店の見習いでした。それが最初の「お年玉」だったらしいです。その時のオーナーが亡くなり、その後Sさんがお店を引き継ぎました。40年の歴史があります。Sさんはその後結婚し、奥様の分も含め「お年玉」を2枚渡しました。その後、お嬢さんが2人生まれ、居住付き店舗なので幼稚園児からお店に出ていました。その時から4枚になりました。数年前、奥様が亡くなりました。お嬢さんたちも今や三十路になりましたが、今年は3枚になりました。40年前を懐かしみビールを飲みました。
私はS店主に「50枚たまったらハワイに行けますよ」とは言っていません(笑)。
「お年玉」は、今や「縁起物」として受け取ってもらっています。
次回、2月10日に掲載します。
ご意見、ご感想は下記まで
support@osg-nandemonet.co.jp