代表取締役 湯川 剛

1973年は会社が大きく変化する年でしたが、私生活にとっても更なる自立を求められる年でもありました。この前年の1972年秋に父親の肺ガンが末期状態であると知らされ、それから6ヶ月に及ぶ闘病生活を過ごしましたが、この1973年4月に他界しました。
1972年と言えば、誤報記事で会社が半壊状態に陥り、しかしそれが社員教育実施のきっかけとなって、その後、仕事上では大変換の時期を迎えましたが、加えて私生活の上でも変換期でありました。当時、仕事の合間を見て東京まで父親の治療の為の丸山ワクチンを貰いに行く事が、私の役目でした。そんな父親の闘病中に、GAT訓練の事が産経新聞に掲載されました。回復の兆しが見えない状況下、少しでも明るい話題で喜んで貰おうと「親父、オレの事が新聞に載ったよ」と話しても、素っ気無い態度で「そんな事で喜ぶな」と逆に諭されました。私の前では無愛想な応対をしていた父親でしたが、私の知らないところでは看護婦さん等に新聞記事を見せては喜んでいたという事を知らされ、あまり父親と接する事のないまま生きてきた自分が改めて「父親」とは何かを感じました。

母親が亡くなって4年になり、看護などは当然子供達が引き受ける事となり、役割分担を兄弟家族で作っていました。その中で一番辛かった事は、訓練の為に何日も家を空けなければならないという事です。1回の訓練期間は2泊3日で、受講される会社は参加者を2〜3回に分けますので1週間から10日程になります。末期においては毎日が危篤状態なので、もし訓練中に訃報が伝えられても、途中で訓練を中止する訳にはいきません。
当時の私は、訓練の依頼があった場合、悩む事はあっても迷いは一切なく、引き受けました。もし訓練の途中で父親の死に目に会えなくても、この父親なら許してくれると思っていました。仕事一途に生きてきた父親ならばとの強い思いがありました。
毎回、訓練に参加する前に病院へ立ち寄り、黙って父親の手を握って「最後の別れ」をして訓練に臨んだものです。ある日、エッソ系GSの1週間の訓練を終えたその足で病院へ向かい、その夜中に息を引き取りました。無事、訓練を終えるのを待っていたかのようにして亡くなった訳です。自分だけでなく、父親も訓練に協力してくれたのだなと頭の下がる思いでしたが、不思議とその時は涙ひとつ流れませんでした。「しっかりしなければ」という強い自立心が、自分の中で生まれたのだと思います。
葬儀には思いもかけなく多くの訓練を受けた会社が駆けつけてくれました。「知らなかった。指揮官のお父さんが危篤状態にある中で、私達の訓練を引き受けてくれた」と、ある社長さんから聞き、その時、はじめて涙がこぼれました。
父親の死で私は遂に、両親に自分の仕事の成果を報告する事の出来ない寂しさを感じました。
31歳で人生の虚しさを会得した訳ではありませんが、誤報記事事件から社内訓練が生まれ、新製品で新しい道筋が見えかけたと思った矢先、親を亡くすという経験をし、何かを得れば何かを失い、何かを失えば何かが生まれる事を知りました。

1978年も私を鍛えてくれる年でした。

(次回に続く)

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