代表取締役 湯川 剛

昭和のプロレス黄金時代を作り、多くの人気プロレスラーを輩出し、また政治家としても数々の話題になるアクションを起こしたアントニオ猪木が10月1日午前7時すぎに心不全のため港区白金台の自宅で死去しました。享年79歳でした。

さて今回は、2005年1月からOSGのホームページで掲載しました「人生はプラス思考で歩きましょう!」(略、人プラ)において初めての試みをします。それは2022年10月現在の出来事を掲載するからです。
改めて「人プラ」について説明します。
「人プラ」では5年以上の前の出来事を振り返りながら掲載しています。
よって今年は2017年の出来事を掲載しています。
ちなみにこの12月で18年の歳月を経ました。赤ちゃんが誕生して大学受験までの歳月と考えると長く掲載してきたなと改めて思います。
今回は「人プラ」約18年にて初めて「現在の出来事」を年内に限り掲載したいと思います。

その理由は「猪木さんの死去」に大きな影響があります。以下の3つの事情もあります。
1つは「猪木さんの死去」の出来事は本来なら5年後の2027年の掲載になります。私の年齢的(80歳)な事も考慮して、5年後にしっかりと執筆出来るかという事です。

2つ目は猪木さんと私との40年間の付き合いの中で極めて「2017年の出来事」が重要な年であったという事です。

3つ目は事実無根な記事や根拠のない内容の情報を避ける為です。

猪木さんが亡くなって1週間程が経ちました。ご承知のように連日に渡りNHKをはじめとするテレビやネットニュース、新聞、雑誌等あらゆるメディアが「アントニオ猪木」の功績や生き様を報道されています。改めてその偉大さに驚くばかりです。勿論、私の知らないかっこいいアントニオ猪木さんの出来事も多くありました。
しかし極一部で「猪木さん死去」に関連する事実無根な記事もあります。
実際、この1週間でも私自身への猪木さん絡みへの取材依頼が多々ありましたが、全てお断りしています。
ちなみに、この40年間にアントニオ猪木さんやプロレス業界の出来事に関する取材が私にもありましたが、全てお断りしてきました。理由は簡単です。
私の仕事(OSG)には関係のない取材内容である事と、このようなエンターテイメントの世界には私自身全く無知でわかっていません。
またエンターテイメントの世界においては事実と異なっても面白おかしく書かれ、話した事と違った内容で掲載される事例を身近で見てきました。
事実、昨年もアントニオ猪木さん絡みで週刊誌に私の事が掲載されました。一度も取材を受けていないにも関わらず、全くのデタラメな記事を書かれた経験が私自身にあり、嫌な思いをし、家族にも迷惑をかけました。

今回も亡くなって2日目に取材の依頼があり、その内容は猪木さんに関する介護の事でした。内容は悪意に満ちたものでした。よくもこのような事を質問してくるものだと、苛立ちもありました。私の知る限り最善の医療チームや介護チームの皆さん方の献身的な姿を目撃しています。しかも24時間体制です。にも関わらず週刊誌の記者からの質問は、悪意に満ちたものでした。そこで私個人の顧問弁護士に対処して貰いました。顧問弁護士は記者からの質問に対する回答を行ない、最後に「名誉を傷つけるような内容の表現をされた場合、やむを得ず法的処置含めて対応する」と一言をつけていました。結果的には週刊誌の記事は掲載されていませんでした。
また多くの知人から既に私に関する記事が載っているとの知らせがありました。しかも「顔出し」との事です。私自身、そのネット記事の存在を知りませんでしたが、周りから教えられました。送られてきたタイトルは『「過激な仕掛け人」から「40年来のタニマチ」まで・・・アントニオ猪木氏が縁を切った3人の名前』との事でした。
このような記事は大体「読まない」と決めていましたが、私の周辺からは「事実に近い事が書かれてある」中には「悪意に満ちた記事ではありません」との報告もありました。

いずれにしろ、事実無根な記事や根拠のない内容を避ける為にも、積極的に「猪木さんが亡くなられる前の2か月間」を中心に、「人プラ」の中でお話ししたいと思った次第です。
この事はご遺族のひとりである実弟の啓介さんの了解も頂きました。

まずははじめに、冒頭に書いた2つ目の40年間の付き合いの中でこの「2017年の出来事」が極めて重要な年であったという事について付け加えておきます。
2022年3月1日(第497回:頼まれ監査役のとばっちり)~4月20日(第502回:またも手抜かりの猪木チーム)の6回に分けて掲載した事についてです。この内容は猪木さんが存命の時に掲載しておきたかった内容であり、結果的にはよかったと思います。

さて、猪木さんが79歳の生涯を閉じられた2022年10月1日の話に戻ります。

猪木さんが亡くなる2日前の9月29日。私は午前中のアポを変更して11時過ぎに猪木さんの自宅を訪問しました。それは、医療チームの先生が往診に来られるとの事でした。
その前日の28日夕刻に猪木さんと面談した際の報告をする為でした。
私は東京にいる時、猪木さんとの面談はランチの時か、夕食の時です。一緒に食事をすれば猪木さんの食も進むとの事で時間の許す限り行きました。ところが28日の時は猪木さん自身にあまり食欲がなく、寝られないとの事で寝室に移動しました。ベッドに横たわる猪木さんの右手を握りいろいろな話をしました。殆どが「詩集」に関する事です。「詩集」に関しては後日お話しします。この日は眠った猪木さんを見届けて帰りました。
翌29日のスケジュールはいっぱいでしかも夕刻に大阪でアポがある為、昼過ぎに新幹線に乗る必要がありましたが、午前中のアポを変更し猪木さんの自宅に向かいました。
私が先生と会うのは「ある事の確認」と猪木さんの症状です。症状に関して、先生の意見は厳しいものでした。先生が帰られた後、新幹線に乗る時間のギリギリまで猪木さんの右手を握りました。猪木さんの部屋には「懐メロ」のCDがあります。この時は「戦後の歌声」として岡本敦郎さんの「白い花の咲く頃」が流れていました。
少し寝られたので私はそっと手を放しました。これが猪木さんと最後の握手となりました。

【追記】
私が30代半ばで猪木さんは30代後半での出会いです。40年の付き合いです。
OSGと猪木さんとの関係は弊社の低周波治療器「リズムタッチ」等、OSGのCMに出演して頂いた事がきっかけです。「イノキのリズムタッチ」で大変貢献してくれました。
2022年10月7日。OSGの役員会の冒頭で、役員全員が生前の猪木さんへの思いや感謝に対して黙とう致しました。心からご冥福をお祈り致します。

(次回に続く)

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