代表取締役 湯川 剛

私と髙橋社長とは猪木と会う時「生きるチカラ」を与える事に心掛けて接していました。
前回の「イノキボンバイエ」開催と「24時間テレビ」出演は、髙橋社長の功績です。
今回は私が心掛けた事をお伝えします。まずは「映画制作」についてお話します。

「猪木に生きるチカラ」を与えるために猪木を素材にした映画を制作する事を思いつきました。この映画制作の話は白金台に引っ越ししてからの話ではありません。それ以前から猪木との電話のやり取りで行なっていました。
猪木から「この部屋を出たい。出してほしい」の依頼から白金台に引っ越しするまでの9か月間に希望を持たすために出た話です。しかし単に希望を持って貰う為だけの口から出まかせの話ではありません。映画の話になってからは必ず計画報告をします。その後に「猪木さん、必ず猪木さんの映画を作りますからね」と伝えていました。電話での会話ですので7割私が話しています。ただ具体的な話になるまでは2人だけの話としてオフレコ扱いにして貰いました。猪木も「分かりました」と言い、非常に楽しみにしていました。

この「猪木の映画」の発想はある1つの映画からきています。
ご存知の人もいると思いますが、劇団ひとりが監督を務め、ビートたけしの下積み時代を描いた彼の自叙伝「浅草キッド」を素材とした映画がその時のヒントです。私自身この映画は見ていません。「浅草キッド」の情報はウォーキング中のラジオで知りました。
この映画はビートたけしの青春ドラマですが、ラジオを聞きながら「昭和レトロ」の時代背景もあるのではないかと思いました。令和の若い人は「平成」より「昭和」にファッションや音楽を求めている事も何かで知りました。「昭和」のワードから「猪木」が出てきました。私は映画「浅草キッド」を知った途端に「猪木の映画を作ろう」と思った瞬間に何とも言えないエネルギーが湧いてきました。勿論、若い人にも猪木の事を知って貰いたいですが、それよりも猪木と共に生きてきた世代の人達に見て貰いたいと思ったからです。

実は私はその時「2本目の映画」を作る準備をしていました。第1作目(セカイイチオイシイ水/第366回第367回から3年が経っていよいよ2作目を作る準備をしていました。その時の脚本家に「猪木の映画」の状況を説明しました。この時のストーリーは映画の最初と最後に実写の猪木本人が出ます。後は俳優が演じる流れです。後日脚本家のアイディアで「猪木VSアリ」戦を中心にストーリーが出来上がりました。しかしこれは前作の自費で賄えるものではありません。この企画は私一人で出来るものではありません。しかし必ず「猪木の映画」を完成したいと思っていたのが2021年の秋です。
そんな経過から映画の制作に対して私と猪木とは9か月間の間に、何度も話をしました。
勿論その狙いの第一義は「猪木に生きるチカラ」を与える事でした。猪木の「必ずこの部屋から出てやる」と私の「必ずこの部屋から出してやる」の繋ぎに映画話は重要な役割になっていたと思います。だから白金台に引っ越ししてからもこの「猪木の映画」についての話は途切れる事無く動いていました。

ただ先ほども言いましたように、私一人で出来る映画ではありません。いろいろな人に共鳴と共感を感じて貰い、多くの協力者が必要となります。何せ「アントニオ猪木」が素材です。
知人の脚本家に大まかな企画書も作って貰いました。それを持って私はある人に説明をしました。その方も非常に理解してくれました。勿論「アントニオ猪木」の素材と「昭和レトロ」の社会背景も折込済で説明しました。
その後、その方の協力で大手プロダクションと面談する機会を貰いました。そのプロダクションには事前に企画書も提出していました。ところが面談の際に、提出した企画書の内容と相手側の映画の構想はガラリと変わっていました。映画タイトルも私にとっては想定外のものでした。中身を知り「プロの人達の感性は違うな」と正直思い、自分の「普通の発想」との比較はまさにプロと素人の違いを感じました。
ちなみにこの話は猪木に伝えました。猪木自身もそのタイトルには大変気に入っていました。
ここから先は相手側の関係もあり具体的な話は控えますが、元々は10月に映画制作の発表をする予定でしたが猪木の死去により大きく予定が変わりました。猪木が生きている間に「完成しましたよ」と伝える事が出来なかったのが悔やまれます。
しかし必ず「猪木の映画」が完成する事を強く信じています。

さて東京にいる時、ランチか夕食は出来る限り猪木宅に訪問する話は以前伝えました。
ランチなら1時間で夕食なら2時間くらいでしょうか。そこで猪木と食事をしながら話をするか、もしくはベッドの横で話をするかです。
そんなある日、猪木から直木賞作家の先生が最近お見舞いに来た時の話が出ました。直木賞作家の先生と猪木との関係は先生がプロレスに関する著書を出版された時からの長いお付き合いです。この時の猪木の話によると先生は「ふたりのイノキ」というタイトルの本を書くとの事です。嬉しい情報です。こういう事が「猪木に生きるチカラ」を与えるのです。

この日は、最初はテーブルを挟んで車いすに座っている時と、その後寝室に移動してベッドで横たわっている時の猪木との会話です。
「それにしてもふたりのイノキとはどういう設定ですか」と質問しました。私は「昔、映画で二人の武蔵というのを見た事があるが、猪木さんが二人出てくるのですか」と質問したところ、猪木は中身は知らないとの事でした。
猪木の弱弱しい声で「本などはタイトルが出来れば後はなんとかなる」との話でした。私は「本はタイトルから入るのですか」に猪木はそれに答えず、「本のタイトルが大事なんだ」といい、「ふたりのイノキ」のタイトルは大変気に入っている感じでした。そういえば映画のタイトルも「イノキ」の名前が入っていますので、気に入ったと思います。

実は私は前々から考えていた事を伝えようとしましたが、話の流れからこの日が絶妙なタイミングだなと思い伝えました。それは詩集についてです。
「猪木さんに、考えて貰いたい事がある」と言って、以前猪木の著書である詩集「馬鹿になれ」の続編を作ってほしいと言いました。病床の猪木は以前のように表情はあまり出しません。黙って聞いているか、少し笑顔を出すかだけです。この時は黙って聞いていました。
更に私は猪木に対して「猪木さん、ベッドの中はいつも暇で退屈でしょう。だから考えてほしいのです」に猪木は少し笑いました。まんざらでもない感じです。
そこで詩集「馬鹿になれ 第2弾」や詩集「続 馬鹿になれ」では芸がないのでタイトルを考えてほしいと言いました。先ほどの「ふたりのイノキ」の話の続きでしたので、話はスムーズです。猪木は私の「タイトルを考えてほしい」と言った後、目をつぶりました。私は猪木が考えているのかなと思い待っていましたが、それから数分間はそのままの状態でした。
「あれ、寝たのかな」と思い、もし眠ってしまっているのなら、そのままそっと部屋を出て帰るつもりで「猪木さん、寝ているのですか」と小声で言いました。
猪木は目をつぶりながら「考えている」と小さな声でいいました。ややこしい表情です。
私は、今でなくてもいいので考えて下さいといい、帰る間際にも「とにかく暇で退屈なんだから」というと、猪木は目をつぶってニヤッと笑っていました。笑顔にホッとします。

翌日、猪木宅に行きました。いつものテーブルに車いすの猪木がいました。
この時は2人の会話は既に「ネタ」が出来ている訳で話はスムーズです。私は会うなり「考えてくれましたか」の質問に猪木は無言でした。私は前回の詩集「馬鹿になれ」の「馬鹿」は外したくないですと言い、会話を続ける事に心掛けました。少し時間が経ったでしょうか。
猪木は小さな声で何か言いましたが、聞き取れません。猪木は必死に何かを言っています。
「えっ!」と少し私の耳を猪木に向けました。聞き取れない小さな声でいいました。
「馬・鹿・の・ひ・と・り・旅」

私は「馬鹿のひとり旅?」と言葉を確認しました。
そしてもう一度「馬鹿のひとり旅」と確認した後すぐに「いいですね」と言いました。
実は猪木が考えたタイトルは私にとっては全て「いいですね」の結果になります。正直、タイトルは私にとっては二の次です。まずは猪木が「考えている」ことが重要なのです。問題は猪木がそれによって「生きる希望」「生きるチカラ」が持ってくれば、それでいいのです。だから「馬鹿のひとり旅」であれ、何であれ受け入れていたと思います。
ところがこの「馬鹿のひとり旅」のタイトルは2人が話をするにつけて、なかなか良いタイトルだと思うようになってきました。実に凄いタイトルです。猪木にピッタリです。
今までも猪木は何か新しい事をやる時、必ず他人の意見をそれとなく聞き確認します。
たぶん「馬鹿のひとり旅」も第三者に本当にいいのかを確認していたと思います。
この「馬鹿のひとり旅」のタイトルを確認されたひとりにアナウンサーの古館伊知郎さんがいたと思います。猪木が亡くなる数日前に古館氏がお見舞いに来てくれました。この時に「馬鹿のひとり旅」の話が出たと思います。「馬鹿のひとり旅」を古館伊知郎さんは「馬鹿の一本道」と聞き間違ったのでしょうか、マスコミのインタビューの中に「馬鹿の一本道」が出てきました。

話は私と猪木との会話に戻ります。
私は猪木に詩集「馬鹿になれ」はどのようにしていろんな言葉が出てくるのかを聞いた事があります。猪木の話によると、いろいろと会話をしている中でふと文章や言葉が突然閃いて来るとの事です。ひとりで考える時より誰かと会話している時に降りてくるのでしょうか。
だから詩集「馬鹿のひとり旅」を完成するには猪木といろいろな話をする必要があります。
以前の詩集「馬鹿になれ」がどのように作られてきたか、私は知りませんが、そんな感じだったのでしょうか。そのような意味では1冊の本が出来るには猪木との会話にかなりの時間を費やす必要があります。私はそれでもいいと思いました。猪木の病状などを考慮しながら1時間くらい、たわいもない話をするのもいいかなと思っていました。「猪木さん、次回からはテープレコーダーを持ってきます」と言いながら、この日の会話が始まりました。
「猪木さんが元気な時は感じなかったが、病気になって初めて何か感じた事がありますか」的な話をしました。この話には「ある」とすぐ返事がありました。
まず薬は美味しくなければダメだ。点滴のやり方や車いすも病人のようでかっこ悪い。など、文字通りたわいのない話から始まりました。ちなみに「美味しい薬」「車いすが病人のよう」は私からすれば「えっ」と思いましたが、しかし考えによっては重要な話です。
「良薬口に苦し」など自分達が勝手に思っているだけです。点滴のやり方ももしかすれば、今のやり方以外にもあるかもしれません。美味しくないから飲みにくいと言っています。

話は続きます。
「猪木さん、もう一度政治家に挑戦したらどうですか。YouTubeで選挙運動です。ベッドの中から立候補なんかどうですか」に猪木は「山本代表に代わって貰うか」と少し笑いながら言いました。私は最初、何の話か分かりませんので聞き流してその話題は前に進みませんでした。たぶん令和新選組の山本太郎代表の事かと、マンションを出てからと感じた次第です。

話は戻します。
「俺は14歳でブラジルに行った。義務教育を終えていない。今更、政治家に立候補するよりも早く義務教育を終わらせたい」と言いました。私にとってめちゃめちゃ面白い話です。
「自分は義務教育を出ていない。まずは中学校を卒業したい」にお互い笑いました。
「中学校卒業ですか」その後、猪木は義務教育すら終えていない自分が政治の世界に入り、世界中の要人らと会った事について話が進みました。キューバのカストロとの話も出ました。当時ソ連で要人と会っていた時、お茶くみしていたのが今のロシア大統領のプーチンの話も「ほんまかいな」と面白い話です。私には何故かあまり北朝鮮の話はしません。以前は北朝鮮でのビジネスの話がありましたが、私がその話に載らなかった事が原因でしょう。
日本の政治家との違いを質問したところ猪木は「今まで彼らと比較して考えた事はない。彼らは当選する事しか考えていないので規模が小さい」とこの日は政治の話から入りました。「政治の世界で義務教育を受けていない自分が凄い大学を出ている相手とやりあってきた」などを話した後に猪木は小さな声で「これが馬鹿のひとり旅」と付け加えました。
「猪木さん、いいですね」といいましたが、心の底から私はそう思いました。
「自分は誰も経験の出来ないハイレベルな悩みとかそこから得られる能力と誇りに満足してきた」とも話していました。「誰も経験の出来ないハイレベルな悩みと能力と誇り」の言葉はまさに猪木そのものの生き方です。猪木の人生はその通りだと思います。
また人間は偉い、偉くないではなく「人間の尊厳」が大事だとの話も出ました。
猪木が何故「人間の尊厳」を言うのかの意味をこの時に初めて聞きましたが、ここでは控えたいと思います。猪木にとってつらい話ですから。

猪木は続けます。
「自分は今、表彰状を貰う事を考えている。実は自分は学校で表彰状を貰った事がない」と言って、ニヤッとしました。私は「表彰状ですか」と意外な言葉に聞き「今更の何の表彰を狙っているのですか」というと猪木は急に自分の歯は丈夫なんだという話をしました。
以前もその話を横で聞いていた介護の方が「猪木会長の歯は殆どが自分の歯です」と言っていました。その時に「8020(ハチマルニイマル)運動」の話が出ました。すなわち80歳に20本以上の歯があれば表彰されるとの事です。正直私自身知りませんでした。
厚生省と日本歯科医師会が推進している「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」という運動らしいです。
難病「全身性アミロイドーシス」と闘っている猪木が「8020運動」に挑み、その狙いは「表彰状を貰いたいから」と言い、その時なんと猪木と私が口を揃えて同時に
「こ・れ・が・馬・鹿・の・ひ・と・り・旅」と言った時は、最高の瞬間でした。
「馬鹿のひとり旅」は猪木が考えた凄いタイトルです。

猪木の名言集は多々あります。どうして人の心に残る言葉や刺さるような言葉が出てくるのかは、先ほど話しました通りです。猪木が言うには突然「言葉が閃いてくる」との事です。それはたわいもない話から生まれるのだと聞いてはいましたが、まさに私の目の前でそれを見せてくれました。感動です。
そういえばこんな事もありました。介護の方が寝ている猪木のベッドのシーツか何かをやり直している時の話です。猪木の髪の毛が寝ぐせもありバサバサで整っていませんでした。
私はその時、「猪木さんの顔はプロレスラーのようですよ」というと猪木がニヤッと笑いました。そこで私は「猪木が笑えば世界が笑う!」というと更に顔を大きく崩して笑いました。
横にいた介護の方も笑いました。私は「どちらかと言えばヒーローよりヒールみたいな顔です」というと猪木は急に黙りました。聞こえていないのか、介護の方も「会長、ヒーローでなくヒールですよ」と付け加えて言っていましたが猪木はその時は知らんふりでした。
猪木語録「猪木が笑えば世界が笑う!」「猪木の常識、非常識」など山程あります。

亡くなった今、改めて猪木は何故「ひとり旅」というフレーズが閃いたのでしょうか。
「ひとり旅」という言葉がどうして出てきたのでしょうか。聞きたいです。
あれ程多くの人々に猪木の生き様と感動を与え、あれ程多くの人々に囲まれながら生きてきて、あれ程多くの世界を回ってきたアントニオ猪木。
本当のアントニオ猪木の生涯は「ひとり旅」だったのでしょうか。
「ひとり旅」のメッセージは何なのですか。

「猪木さん、教えて下さい」

次回、12月10日に掲載します。

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