代表取締役 湯川 剛

猪木が亡くなって2日目に入りました。
前日のネットニュースに小川直也らの弔問がアップされたのか、多くの方々が猪木宅を知り弔問に駆けつけてくれました。長州力・藤田和之・佐々木健介・北斗晶・高田延彦・藤波辰爾家族の皆さんもお参りに来てくれました。
皆さんは「師匠と弟子」の言葉を使いますが、師弟関係はそれだけに絆も強いのでしょう。
2日目の朝、全国紙が「猪木死去」を一斉に掲載されました。特に一面を飾った各社スポーツ紙を含めた10社以上の新聞に「猪木会長の記事が掲載しています」と宇田川氏がベッドの下にずらりと飾ってくれました。その横には猪木が愛飲したワインやウイスキーも並べられていました。

この日も殆どが10日後の「家族葬」について時間を費やしました。葬儀告別式会場の限りある席数にどのような方をお知らせするのかが課題でした。明確になった事は猪木の生前の最期の社会的身分である「新日本プロレス」の「終身名誉会長」にて「新日本プロレス」を優先的に考え、プロレス格闘技界や政界の方々をお呼びする事にしました。
この時も葬儀社からの話が私を悩ませます。
それは大勢のファンが押し寄せてくるのでひっそりとした「家族葬」としながらも、実際には「アントニオ猪木」の「家族葬」にはマスコミが大々的に取り上げてほしいという矛盾した私の悩みです。ファンの皆さんが押し寄せてくる事を避けたい気持ちと、真逆にマスコミには取り上げて欲しいという二律背反の悩みが原因で、葬儀告別式の日まで殆ど不眠状態でした。何度も夜中に起き、夢なのか想いなのか混乱していた夜もありました。
ファンの皆さんが葬儀告別式に押し寄せてくる状況に慌てふためく私がいて、他方ひっそりとした寂しい家族葬に対し猪木に申し訳ない気持ちのもう一人の私がいました。

さて夜になり、ご遺体を安置所に移動しなければなりません。ここで問題になったのが移動の際、マスコミに斎場を知られる事です。この2日間で葬儀社が私達に注意した事は、たとえ「家族葬」としても必ず熱狂なファンが多数寄せてくる事態へのシナリオです。それを何とか阻止したい。そうしなければ事故が起こる可能性もあるというのが葬儀社の説明でした。
如何に斎場会場をメディアに知らせない事でした。お通夜まで10日間あります。その間に都内の斎場に電話をして探す熱狂ファンもいるとの事です。その為にも斎場では「猪木家」の名前を伏せる程、神経を使っていました。それも全て「事故」を未然に防ぐ為の対応でした。葬儀社と協議の中で「猪木さんならそれくらいのハプニングがあってもいいのではないか」の話題になりましたが実際には問題が発生すれば猪木家が問われるとの事でした。

猪木宅から斎場に行くまでのコースに議員であった猪木に国会議事堂の前を通る事になりました。東京ドーム等猪木に関わり合いのある会場の前を通りたかったのですが時間の関係もあり国会議事堂だけにしました。
さていよいよ猪木宅から斎場へとご遺体を移動する時間がやってきました。
ここで葬儀社と髙橋社長や宇田川氏等スタッフでどのようにしてご遺体を出すかという協議になりました。
正面入り口から出る。裏口から出る。ダミーの輸送車を1台準備するなどが話し合われました。窓から外を見ると裏口にもマスコミが待機しています。また正面道路にも多数の車が停車していました。マスコミ各社が「葬儀会場はどこか」の取材合戦なのでしょう。いろいろな「出方」を葬儀社と協議をしました。こそこそと裏口からではなく正面玄関から堂々とでなければ猪木に叱られるのではないかという意見が出ると全員黙り込んでしまいます。
そうです。「アントニオ猪木」としてどうすべきかが私達の頭の中にはありました。
葬儀社の「葬儀会場を知られ多くのファンが押し寄せてくる事への事故防止が重要」の意見に私も含めスタッフの判断基準が鈍ります。斎場会場の受付締切時間が刻々と迫ってきます。
この時ばかりは「猪木会長、本当に教えて下さい。猪木らしいにしなくてはなりませんし、同時に殺到するファンから起こり得る事故防止にも責任があります。猪木会長、本当にどのようにすればいいのか教えて下さい」と全員は真剣に考えていました。

結果的にはマンションの住民の方々の対応も考え、正面玄関から出る事はやめました。
次に正面玄関で待機しているマスコミの人達に集まって貰い、髙橋社長と宇田川氏がコメントを述べている間に裏口から輸送車を出す事になりました。さてその時刻がきました。
髙橋社長、宇田川氏が玄関口を出た時に一斉に取材の囲みが起こりました。予定通りです。
その時間に合わせて裏口からご遺体を乗せた車が出ようとしました。
ところが一部のマスコミが待機しその瞬間を撮影しました。フラッシュが裏口あたりから見えたのか、玄関口で髙橋社長らの取材をしようとしたマスコミの記者・カメラマンは一斉に裏口に向かって走り出しました。髙橋社長と宇田川氏の前には僅かな記者だけでした。
既に輸送車は走り出しました。ご遺体を乗せた車から葬儀関係者の連絡が逐次猪木宅で待機している私達に入ってきます。同乗している葬儀社の話では「数台の車が追いかけてきている」との事でした。1時間程走ってもその数は減りませんが、最後は1台となりました。
猪木宅で私達と待機している葬儀社の部長から「その辺ならA斎場に行くように」と指示が出ました。その斎場には同じ葬儀社の別の葬儀準備をしている全く違う斎場です。

間もなく追跡していた車は「ここが斎場だ」と勘違いして追跡の車が消えたとの事です。
その報告を確認し、待機していた私達は猪木のご遺体が来る斎場に向かう事にしました。
驚いた事にマンション下ではまだマスコミが数名待機しています。改めて彼らのプロ意識には頭が下がります。私達は「ここにご遺体はない」と伝え、私達も自宅に帰るのでと伝えましたが彼らは帰らない感じでした。私達は何台かの車に分乗し追跡の車はないと確認して斎場に向かいました。
斎場に到着し30分程待っているとご遺体を乗せた車が入ってきました。そこで改めて全員が棺の中の猪木と面会し、猪木とのお別れに全員が手を合わせました。
寛子さん親子が帰国するまでの約10日間、猪木は一人で凍るような寒い安置所にいる説明を葬儀社から聞きました。全員無口になりました。

こうして昨日からの長い長い運命の2日間は終わりました。
後は寛子さん親子の帰国を待って葬儀告別式を無事終える事でした。

次回は12月31日に掲載します。

【追記】
何度も説明しましたが、この「人プラ」は約5年以前の出来事を掲載しています。
掲載18年にして初めて「現在の事」を掲載しています。
その理由は10月10日付 第519回「猪木さん死去」に掲載しています。
10月10日付から11月10日付までの6回掲載は亡くなられる前日から葬儀告別式を終えたところまで掲載しています。
11月15日付から今回の12月25日付までは、それまでの経緯が書かれてあります。

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