第6回 「猪木との再会」

私は2月4日、羽田21時05分発ロサンゼルス行きに搭乗しました。訪問の目的はロス在住で猪木の愛娘寛子さん宅を訪問し、主に3月7日の両国国技館で開催される猪木の「お別れ会」での説明をするためです。
昨年の葬儀告別式を終え、ロスに戻った寛子さんからも何度か「湯川さん、是非ロスに来て下さい」とのお誘いもあり、やっとこの日に時間が取れました。
ロサンゼルス空港には、現地時間2月4日14時05分に到着。
ロス渡航はコロナ前の2017年に来ているので6年ぶりでしたが、その前は確か05~07年頃にロス在住時代の猪木宅を訪れていた事を思い出しました。
空港には寛子さんと次男のナオト君、そしてナオト君のパパが迎えに来てくれました。前日に入国した猪木元気工場の髙橋社長とも合流。空港近くのホテルにチェックインした後、私達は寛子さん宅を訪問しました。

寛子さん宅のリビングに猪木の遺影と遺骨とお位牌が祀られていました。その横には水晶が置かれた闘魂タオルもありました。

『第3回:「従四位」「旭日中綬章」授与(2023年1月25日掲載)』にも掲載しましたが、1月23日に政府から頂いた「従四位」「旭日中綬章」の賞状とメダルを長男寛太君が持って帰っていない事が分かりました。寛子さんから「是非、見たい」とのLINEが入り「すぐに持参します」と返信した事も今回のロス訪問の日程に大きく影響していました。
その「従四位」「旭日中綬章」の賞状とメダルをまずは遺影の猪木に報告しました。手を合わせながら「猪木さん、久しぶりです。受賞おめでとうございます。今、お別れ会の準備を新日本プロレスとしています」と報告しました。「お別れ会を成功させるために一生懸命に執り行います。頑張ります。天国から見守って下さい」と言ったところで、目頭が熱くなり涙が出そうになりました。

私の両親の遺影は笑顔で映っています。しかしその時々でその笑顔が怒っていたり悲しんでいたりして見える場合があります。そんな事があり、改めて猪木の遺影をじっと見ましたが笑顔のままで「よく来たな」と言ってくれているような顔でした。
本当に久しぶりの再会です。
寛子さんが「是非ロスに来て下さい」の意味もこの時、何となく理解しました。

夕方に寛太君も大学から帰ってきました。寛太君とは1月23日の受賞の記者会見等が掲載されている翌日のスポーツ新聞を持って行くと約束していたので、彼の目の前にドサッと置きました。
日本語が分からない次男ナオト君やパパも新聞の記事を見て、英語で会話していました。英語がわからない私は「何となく盛り上がっているんだろうな」と思い、また猪木の遺影を見ました。
「猪木さんも笑ってる」。そうか、猪木さんは英語が出来るから一緒に会話しているのかなと思いました。
寛子さんには改めて「お別れ会の企画書」を見せました。両国国技館での祭壇のデッサンや会場のレイアウト等も見せました。会場費や運営費等もそのまま見せました。新日本プロレスと猪木元気工場の主催や費用の負担や収支も前回の「3回目のお別れ会準備会議」に掲載してある話をそのまま伝えました。
お別れ会は「追悼式典」と「献花式」の2部制で行なわれ第1部の追悼式典は会場の混乱を避けるためチケット制で、座席指定券や献花用の花、返礼品(マフラータオル・メッセージカード)付きで1万円の有料である事も説明しました。第2部は追悼式典会場を開放し、多くのファンの方に来て貰う事も説明しました。寛子さんも理解され、話は当日、遺族として参列する服装等に話題が移りました。私はその手の話は不得意なので寛子さんに任せる事にしました。ただ葬儀告別式の時に寛太君やナオト君が紋付袴姿でしたが、1月23日の授賞式に寛太君が赤いネクタイを締めた事が話題になり、今回もやはり猪木の赤いネクタイを着用した方がいいと私の考えを伝えました。

(2月10日掲載は、2月4日から9日まで海外出張にて2月3日に作成しています。
3月7日の両国国技館で「お別れ会」が開催される1カ月前の2月7日あたりに新日本プロレス及び猪木元気工場からファンの皆さんに「お別れ会」の全容がわかる発表があると思います。)

寛子さんファミリー4人と愛犬「ごはん」と髙橋社長らと雑談している時の話です。
寛太君がスマホの写真を見せてくれました。それは猪木の昔の写真です。
ブルースリーとの写真。ジャッキー・チェンとの写真。F1レーサーのセナ選手とのツーショット。
更に猪木がキューバのカストロ首相に日本酒を注いでいる凄い写真もありました。以前にカストロ首相と猪木が一緒に撮った写真は知っていましたが、それとは違う写真でした。
マホメッド・アリの未公開のツーショットもあり、いわゆるお宝写真です。
改めて「世界の猪木」です。
更に驚いた事に常々猪木は私に「オレは孫など抱いたことはない」と言っていたのに、しっかりと赤ちゃん時代の寛太君を若い猪木が満面の笑顔で抱いている写真も多数ありました。
「なんや猪木さん、話が違うやん!」と私は遺影の猪木の方を見ました。何かしら、照れくさそうな笑顔に見えました。
ここでは改めて「家庭の猪木」です。

話しは変わります。
ここでは具体的な話しの内容は控えますが、寛子さんの話しによると猪木の四番目の奥様から寛子さんが受けた対応には少なからずショックを受けました。にわかに信じられない話しでした。
猪木もそれらを知り悩んでいたとの事です。
当時、猪木と愛娘親子とのコミュニケーションが、電話番号が変えられて不自由な制限がある中で、陰から猪木がサポートしていた話しも聞き、少し安心しました。
私はそっと遺影を見ると猪木が「そうなんだ」と言うような顔をしていました。
私は猪木に「全ては過ぎた過去の話し。これからは寛子さんファミリーを天国から見守って下さい」目と目で話しました。

翌日、猪木がよく通っていた「フランス・ベトナム料理」レストランに寛子さんファミリーから招待を受けました。
その店は、ビバリーヒルズのメインストリートのロデオ・ドライブの近くで、私達の時代に大ヒットした映画「プリティーウーマン」の中に登場する超高級ホテル、リージェント・ビバリー・ウィルシャーも近くにあります。
そのレストランの女性オーナーが私達のテーブルに挨拶に来られました。
すでに猪木が亡くなった事を知っていて猪木との思い出話をしてくれました。
この華やかな街、ビバリーヒルズでも猪木の知名度は広くしれわたり、改めて猪木は世界のスターであることを知らされました。

2日間の短い「ロスの寛子さん宅訪問」でした。夕方にもう一度、遺影の猪木に挨拶をしました。
そこで改めて「お別れ会」を一生懸命対応する約束をしました。

今回の2日間の訪問で温かく歓迎してくれた寛子さんファミリーとは3月7日に日本で再会する事を約束し、別れました。

次回、2月20日に掲載予定です。
(「天国の猪木へ」は不定期掲載です)

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