第7回 「80歳の誕生日にお別れ会準備」

本日2月20日は猪木の80歳の誕生日です。
昨年の闘病生活で「生きる希望」としてこの2月20日の誕生日が当時の最長目標でした。
当時は12月末開催の「INOKI BOM-BA-YE」出演を年内の「生きる希望」にしていました。
その後、1月4日の新日本プロレス・東京ドーム大会で「終身名誉会長就任」の発表に猪木が登場する構想で本人も東京ドームの花道を歩く事をイメージしていました。
そして2月20日の80歳の誕生日をホテルオークラでお祝いする事になっていました。
翌日2月21日、武藤敬司選手の東京ドームでの引退試合にも「80歳最初の仕事として登場しましょう。一気に東京ドーム登場ですよ」と話すと、本人もベッドから富士山が見える窓の方をみつめながら頷いていました。
猪木のことだから「行ってやる!生きてやる!」と思った事でしょう。
この話は武藤敬司選手にも伝えています。僅か6か月前の出来事です。当時の事を思い出すと目頭が熱くなります。80歳の誕生日を迎える日に猪木のお別れ会の準備をしている自分がいます。

今、私は「猪木のお別れ会」の準備事務局として「発起人」・「ご招待者」リスト作成に本来の業務の合間を使って昼夜関係なく時間を費やしています。
準備事務局は僅かな人数で対応していますので、私も自ら電話を掛け限られた日程の中で動いています。
さて、2月13日16時。新日本プロレス会議室にて第4回お別れ会の打ち合わせが行われました。
期日が迫る中での打ち合わせです。
議題は多岐にわたっています。まず初めに「ご遺族との打ち合わせの共有」から始まりました。
先日、ロスにて寛子さんとの打ち合わせの報告もこの時にしました。
続けて「運営について」屋外待機列導線の確認や屋内運営の確認・出席者確認・受付方法・関係者諸室計画・献花導線の受渡方法等、細かな図面を用いて警備会社からの説明がありました。
続けて「進行について」進行台本の確認、ご登壇される方々と献花のお呼び出し等、細かな打ち合わせが続きました。更に式壇デザインについてご遺影のサンプルも細かな打ち合わせもありました。

最初の打ち合わせは私自身積極的に発言しました。決め事や費用等の大きな枠組決定に対し発言しましたが、今回の打ち合わせは私の出る幕はありません。
細かく具体的な話しに参加者の皆さん方が一生懸命話している姿をただ見ているだけです。プロの皆さん方全員が如何にして猪木のお別れ会を成功させるかを目的に真剣に討議されていました。
私はその時々に天井を見上げます。「猪木さん。どうかお別れ会が無事に、そして成功裏に終わるよう見守って下さい」と思うと同時に「猪木さんがこの席にいたらどうするかな」と思っていました。
いずれにしろ、式場運営のM社や警備会社の皆さんのプロに徹する仕事ぶりに安心感を覚えました。
ただ聞いているだけの私に成り代わり、新日本プロレスの菅林会長や元アントニオ猪木マネージャーの宇田川氏の積極的な対応には頭の下がる思いです。
特に、新日本プロレスの存在なくして、この「お別れ会」は成立しなかったと思います。
そのような意味において、猪木は亡くなる前に新日本プロレスに復帰した事で改めて猪木の凄さを肌で感じました。何もかもお見通しで天国に逝ってしまったのだと思います。

私の役割は準備・運営事務局として決断を求められた時に判断する事と「お別れ会」の全ての責任を負う事です。
3月7日が迫ってきて日数がない事での焦りは正直がありますが、それでも大枠が見えてきました。
この日、唯一「確認」したい事がありました。それは前回に発言した内容の確認です。
「お別れ会」当日は平日です。仕事を終えて両国国技館に駆けつけてくるファンの皆さんもいる訳です。なんとか受付締め切り時間の延長は出来ないかとお願いしました。とはいえ両国国技館の規則もあります。そこで受付終了後、両国国技館の外側でもいいので「献花台」を置けないか!と話したのが前回でした。今回はその「献花台」が両国国技館敷地内に設置でき、しかも21時まで献花可能との事でした。多分、打ち合わせ参加者の方々が前回から動いてくれたのでしょう。その報告を聞き心から感謝しました。

日が迫り、私の睡眠は予定通り狂ってきました。寝ていて夢なのか、ベッドの中で考えているのか、分からないまま、「あの人にも連絡しなくては」「あの段取りはどうなっているか」と真夜中にメモしたりしています。
事務局も人数が限られ、私を含め全員、本来すべき業務があり、限られた時間での対応です。
間違いなく多くの方に連絡漏れがあり、大変失礼な事になる事も予想していますが、最小限に留めなくてはなりません。自分自身に言い聞かせている事は一切の手を抜かず、最大限の努力をする事で当日を迎えるという事です。
「お別れ会」の発起人の皆さん方がほぼ決まりました。発起人代表の坂口征二(新日本プロレス相談役)をはじめ、元総理経験者や野党の代表者が喜んで発起人になって頂いた事は、やはり政治家アントニオ猪木の評価の現れと、改めて猪木の今日まで歩んできた実績に感動しています。

第4回打ち合わせは3時間に及び、19時過ぎに一旦終わる事になりました。
しかしその後も、現場サイドでの打ち合わせが引き続き会議室内で行われていました。
私はひとり新日本プロレス本社を出ました。この日は雨でした。
私は中野坂上駅から乗り、大門駅で乗り換えて品川駅方面に帰る予定でしたが、品川駅の3つ手前の大門駅で途中下車し雨の中を歩く事にしました。
歩きながら「来週20日は猪木さんの80歳の誕生日だな」と思い、また「お別れ会」について考えていましたが、ふと何故か生前の猪木が言った詩集「バカのひとり旅」の言葉を思い出しました。
猪木は何故「バカのひとり旅」と言ったのか。
猪木の人生は多くの人に感動を与え、多くの人に囲まれて生きてきた人生だというのが、私を含め周囲の人達の認識だと思います。にも関わらず、何故「ひとり旅」の言葉が出てきたのか。
「お別れ会」にも多くの方々が発起人を喜んで引き受けて頂き、多くのファンの方々が「お別れ会」に駆けつけてくれると思います。
なのに何故、猪木は「独りぼっち」と思ったのか。その事を急に、猪木に聞きたくなりました。

そして、もっと猪木と話したかった。
もっと猪木とめしを食べ、酒を飲み、べろんべろんに酔いつぶれたかった。
もっと猪木と女や恋や愛や男の生き方について話しをしたかった。
もっと猪木と一緒に世界を旅したかった。
もっと猪木と人生を語り合いたかった。

「猪木さん。寂しいなぁ」
雨のせいか、涙のせいか、第一京浜を歩く目の前の街並みの景色が曇っていました。

次回、3月1日に掲載予定です。
(「天国の猪木へ」は不定期掲載です)

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