第128回  猪木の妹弟

猪木の命日にあわせて、ブラジル在住の佳子さんが来日しました。14日間の滞在期間でした。
3日後の13日に帰国との事で、私は10月10日に徳島から東京に入り、夕食の時間に間に合いました。新橋の行きつけの寿司屋に佳子さんと啓介さんとで食事に行きました。

佳子さんは猪木の事を「寛至兄さん」と呼びます。猪木とは4つ違いです。
色々と話しました。ここでは言えない話もたくさんあります。猪木の恋人や4番目の奥さんが猪木妹弟にした事、更に猪木の取り巻き連中での闘病生活の中で色々妹弟が受けた内容等です。
当時猪木は寂しかったのか、4つ下でブラジル在住の佳子さんに毎日のように電話をしています。その時の内容はここでは控えますが「寛至兄さんがかわいそうだった」との事です。

さて、意外な話を聞きました。猪木が突然お母さん宛に手紙を送ります。その時に「結婚した。子供が出来た」との内容です。猪木が二十歳そこそこの話です。私達もよく知っている第1回目の結婚です。その娘さんの名前「文子ちゃん」は猪木ファンなら誰もが知っている話です。ところが、この「文子ちゃん」の名前は意外なところからきています。ここではお話しません。
17歳から家族と離れさみしかったのでしょう。そこに猪木の心情が伝わります。

その後、猪木の詩集について話題になりました。「馬鹿のひとり旅」は猪木自身が病床の中で考えたタイトルです。私が生きる希望として「猪木さん。詩集を出しましょう」と言った話は何度も「天国の猪木へ」で掲載しています。中々タイトルが思い浮かばなかった時、私は前回の詩集「馬鹿になれ」に沿って「馬鹿を入れてはどうですか」から「馬鹿のひとり旅」が出てきました。そうです。猪木はずっとひとり旅をしていました。この第2弾の詩集のタイトル「馬鹿のひとり旅」の話になった時、3人の目は潤んでいました。「寛至兄さんは結局ひとりだったのですね」。猪木の生涯を表しているタイトルです。
私が佳子さんに「猪木さんは詩集を書くような文才が若い時からあったのですか」と尋ねたところ、「実はお母さんがよく詩集を書いていた」との事でした。私は驚きました。聞くと、お母さんの「詩集」を佳子さんが大事に持っているとの事で、何冊もあるとの事です。私は、なにかの機会に見せてほしいです、とお願いしました。

私が啓介さんと佳子さんに「もし猪木さんと会えるなら、どのような話をしたいと思うか」と尋ねました。私ももし猪木と会えたならどのような話をするかな、と思いながら2人に尋ねました。私も含めてすぐに答えは出ません。3人とも目頭が熱くなったのでしょうか、啓介さんも佳子さんも、そして私も泣きそうになりました。3人とも感謝を伝えたい、的な話になったと思います。翌日の事があるので1時間少しでお店を出て別れました。

私は、新橋から品川に向かって第一京浜15号線を歩きました。南の空になるのでしょうか、半月が出ていました。ほんの少し前は中秋の満月だったのに、と思いました。三日月になれば顎がとんがって猪木の顔になるのになあ、とどうでもいい思いで南の空の半月を見ていました。都会の空は明る過ぎて星が見えません。品川に向かって歩くと大きなビル群が半月を隠します。
私はもし猪木と会ったなら「どうして娘さんの名前を文子ちゃんにしたのか」。そして「何故馬鹿のひとり旅にしたのか」を聞きたいな、と思いました。
半月が西の方に移動したのか、それとも道が曲がっているのか、見えては隠れます。

「猪木さん。会いたいね」

【追記】
食事中、映画「アントニオ猪木をさがして」の話になりました。佳子さんが、見たかったと言ったので、私はDVDを取り寄せますと約束しました。もしなければ、私が持っているDVDを明後日に持って帰って下さい、と約束しました。本日の早朝、筒井ディレクターに電話したところ準備をする、との事です。間に合ってよかった。ブラジルで「寛至兄さん」と映画を通じて会って下さい。

半月ほどの長期海外出張のため、今月の掲載は厳しいと思います。

次回、10月21日に掲載予定です。
(「天国の猪木へ」は不定期掲載です)

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