第132回  猪木と力道山

11月9日17時20分に帝国ホテルに着きました。
この日は「力道山生誕100年」の会がありました。受付が17時30分で、開演が18時と聞いていたので、待ち合わせの人と会うためにロビーの入り口辺りで待っていました。ところが、実際は17時30分から開演との事で、18時に入った時はほとんどの人が着席していました。
力道山と生前お付き合いがあったという事で、プロ野球名選手の王貞治さんや張本勲さん等が来賓としてスピーチし、現役アナウンサーの徳光和夫さんも場内を笑わせていました。力道山の映像が映るのかな、と楽しみにしていましたが、その企画はありませんでした。私の知り合いを数人呼んでいて、事前に同じテーブルでと言っていたにも関わらずバラバラの席でした。中には席も用意されていなくて主催者側の混乱ぶりが見えました。力道山夫人の田中敬子さんとは30年来のお付き合いをしているので、頼まれてもいないのですが私が代理で謝罪しているような感じで「力道山生誕100年のパーティーに免じて大目に見てあげてください」という有様でした。その中の一人に猪木の実弟である啓介さんもいました。そこで私は途中で退席し、ホテル内のレストランで啓介さんらと改めて食事をしました。話によると、83歳の力道山夫人は企画を第三者に任せているとの事で「大変だなあ」と思いました。
実は、確か10数年前に「没○○年」だったか「生誕○○年」か忘れましたが、力道山の企画を猪木がする事になりました。ところが、IGF役員会で数か月にわたり協議をしていたにも関わらず、突然猪木がいつもの感じで「やるのを止めた」とのちゃぶ台返しをしました。
当時のIGF役員もそれに従う事になりました。その一部始終をIGFの監査役をしていた私が見ていたので、猪木が事務所を去った後に役員を呼んで「私が責任を取るので、猪木会長には止めた事にしてこのまま企画は進める」と指示をしました。当時、私はその事で多方面にかなりの根回しに動いたものです。なにせ猪木の師匠である力道山の企画です。当時の政治家猪木として彼以外は出来ないわけです。また、これで猪木のメンツも保てるわけです。
結果的には、ホテルオークラで無事その宴会は終わりました。当時も王貞治さんや張本勲さん等が参加しました。参加者の皆さんは音頭を取った猪木に感謝の言葉を述べていました。「さすがは猪木さん」と言われ、猪木自身も自分が途中で「止めた」と言った事をすっかり忘れ、参加者からの感謝の言葉を笑顔で受けていました。私は会場で、そんな事もあったな、と思い出しながら途中退席し、啓介さんと合流したわけです。

ホテル内のレストランで、改めて猪木と力道山との出会いについて啓介さんから聞きました。
実は、私自身「猪木本」はほとんど読んでいません。詩集「馬鹿になれ」もAI猪木の「馬鹿のひとり旅」を考える時にパラパラとめくった程度です。よって力道山と猪木との出会いが本等でどのように書いてあるかは正直知りませんでした。力道山がブラジル興行で猪木の存在を知り、プロレスの道にスカウトした程度の話しか分からないわけです。そこのところを啓介さんに話したところ、啓介さんが意外な話をしました。啓介さんの話によると、猪木は子供の頃からプロレスラーになりたかったとの事です。当時は米国でプロレスデビューをしたかったとの事でした。

ブラジルに集団で移民した猪木ら家族が住んでいたのはかなりの田舎でした。そこに、日系人が多い町マリリアに力道山が来るとの事で、農場地主に「力道山に会わせてやる」と言われて少年猪木が上の兄と喜んで行ったが、結果的には会わずじまいでがっかりして2人が帰ってきた場面を今でも覚えているとの事です。農場地主が「力道山を知っている」と言っても、当時の力道山は超有名スターなので力道山自身は農場地主を知らなかったわけです。ハッタリだった、とは後日の話です。その後、1300キロ離れたサンパウロに引っ越し、猪木と上の兄が陸上競技に参加。猪木はやり投げ・砲丸投げ・円盤投げの3種目に出場して、やり投げはほとんど練習していなかったとの事ですが、砲丸投げ・円盤投げで優勝しました。猪木自身はオリンピックに出て、有名になって米国のプロレスラーを目指し、ルーテーズ選手に近付こうとしていたとの事です。
片や力道山は、2回目のブラジル興行に来る事になりました。その時、陸上競技で優勝し、古い新聞で掲載されているひときわ背の高い猪木が力道山の目に留まり「この男を探してきてくれ」と農協の責任者に話したらしいです。その農協に猪木が働いていた事で、猪木と力道山が出会ったのは色々な雑誌や本に書かれている事です。

農場地主がハッタリであれ、その前に力道山に会わせてやるという事が実現していたなら、もっと早いうちに猪木と力道山の出会いがあったわけです。また、猪木がオリンピックに出て有名になり、米国のプロレスラーになっていたなら猪木と力道山の出会いはなかったです。
いずれにしても、力道山との出会いがなければ、アントニオ猪木は誕生していなかったのでしょうか。それとも、猪木の事だから米国でデビューしていたのかもしれません。

そんな猪木と力道山との出会いを、改めて啓介さんと語り合う時間になりました。もし、会場に啓介さんの席があったならこんな話はしていなかったのかもしれません。

そういえば「アントニオ猪木生誕100年」は19年先の2043年。
たぶん私が仕切っていないので、どうなる事やら・・・。

長期海外出張が入り、次回は12月1日に掲載予定です。
(「天国の猪木へ」は不定期掲載です)

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