第153回  3年前の10月1日。今年の10月1日

3年前の今日、2022年10月1日の朝。
稀代のスーパースター、アントニオ猪木は79年の生涯を閉じました。波乱万丈の人生でした。
そして、10月1日から私の人生も変わりました。

この日から告別式・お別れ会・映画「アントニオ猪木をさがして」の上映・お墓やブロンズ像の建立など目まぐるしい1年間でした。私財投入は大台に達しましたが、数々のエピソードを残したスーパースターアントニオ猪木に対して、私なりに精一杯のやった感があります。

3年経った今も、私は毎月の「猪木元気工場」役員連絡会に参加し、「猪木」と出会っています。
私の人生において、10月1日は特別な日となりました。正確に言えば、10月1日をはさんだその前後の数日間は「猪木ロス」の期間です。3年経った今も変わりません。
猪木が亡くなってから私の人生で1番変わった事は、夜空をよく見上げるようになった事です。
あれだけ活躍してきた猪木だけに、まだまだ何かやりたい事があっただろう、とそれだけに猪木に不憫さを感じる時があり、夜空の猪木と話します。

4日後の10月5日、中国・広州で新日本プロレス主催の大会が開催されます。猪木が北京オリンピック閉会式をテレビで見た時、「これから中国にプロレスを広める」の一言で動きました。
その間、上海や天津、そして深圳でIGF主催の大会があり、自主主催も何度か行いました。
昨年12月、上海で初めて新日本プロレスの一部の選手が出場し、菅林会長も観戦しました。
そこから数えて10か月。ついに新日本プロレスが中国の地で大会を開催してくれます。
IGF主催や自主主催をいくらしても、私の心はスッキリしません。やはり、猪木が創業した新日本プロレスが中国で大会を開催してこそ、猪木の「これから中国にプロレスを広める」という言葉の意義があるのです。
猪木が「中国でプロレスを」と発してから、新日本プロレスが本格的に中国で大会を開催するまで17年掛かりました。そして、猪木の祥月である10月に開催することに、大きな意味があると思います。
数か月前に菅林会長から「10月5日、広州で開催」と連絡があり、胸がジンと熱くなりました。その時、菅林会長からの「湯川会長の永年の努力です」との言葉に、思わず涙が出そうになりました。普段そういう事を言う人ではないだけに余計に胸に響きました。

少し話は変わります。私が37歳、猪木が41歳の時です。1984年5月だったと思います。私の自宅で、猪木と若き10代後半の武藤敬司・蝶野正洋・橋本真也ら、後の闘魂三銃士に加え、当時15歳の船木誠勝が食事をした時の事をよく覚えています。その時の写真もあります。
ホットプレートを3台を使い、焼き肉を数㎏準備したと思います。この時、電圧が足りずヒューズが飛び、停電になった事や若き闘魂三銃士がピーマンやキャベツを生で食べた事を今でも覚えています。それ以来、私も焼き肉の時はピーマンやキャベツを生で食べるようになりました。
さて、先日その船木誠勝が「デビュー40周年大会」を大阪で開催しました。その大会で、船木選手が猪木の「道」を披露しました。
本日、10月1日に船木誠勝ファミリーと食事をします。
3年前の慌ただしい10月1日に、3年後のこの日の事は想像し難い事ですが、やはり全ては猪木絡みです。

3年後の2028年10月1日も、おそらく猪木絡みの10月1日だと思います。


次回の掲載は未定です。
(「天国の猪木へ」は不定期掲載です)

ご意見、ご感想は下記まで
support@osg-nandemonet.co.jp

ページトップへ